THE SAX vol.44

Part.2 Classic Sax Player 偉人伝

Eugene Rousseau ユージン・ルソー

1932年生まれのユージン・ルソー氏は、Classic Sax奏者として著名な演奏家の一人である。 彼は1964年以来アメリカのインディアナ大学の教授を務めており、そのうち6年間は管楽器の主任教授であった。カーネギーホールでのリサイタルの後、ヨーロッパなど各国で演奏会を開き、好評を博している。ウィーンの音楽アカデミーにサックス奏者として初めて客員教授として招かれ、講座を担当した。 彼のレコードは各種発売されているが、ドイツ・グラモフォンでは初めてのClassic Saxのソロも含まれている(現在CDは10数枚に及んでいる)。また著書も多く、「サクソフォーンの為のメソード」(kjos社)、「サクソフォーンの為の高音域」(エトアール社)、「マルセル・ミュール 彼の人生とサクソフォーン」(エトアール社)がある。
1978年より1980年まで北アメリカ・サクソフォーン評議会の会長を、また世界サクソフォーン・コングレスでは、1985年と2003年に委員長を務めた。 現在ミネソタ大学音楽学部の教授。

About Eugene Rousseau Navigator:石渡悠史

■その音楽観

ユージン・ルソー氏は、ノースウェスタン大学で修士(オーボエ)、アイオワ大学(クラリネット教育学)で学位の最高位であるPh・Dを取得していることから考えれば、伝統ある音楽に対する理解力が大きいのは妥当であると思う。しかしSaxに転向後はフルバンドで3番奏者としての演奏経歴もあるので、Jazzの演奏も上手である。
また楽器やマウスピース、リードも自分自身に合った物でなければという考えで、音色・吹奏感に合った物を設計・製作しており、私自身も全部の楽器に彼のマウスピースを使用している(特にバリトンのマウスピースは、日本でもかなりの奏者が使用している)。また長い期間ヤマハのアドバイザーとして、YAS-62やカスタムの設計に助言しているが、現在のヤマハのSaxが好評を得ているのは彼の功績が大きいと思う。

■学んだこと

ルソー氏とは来日のたびの自宅への訪問、国立音楽大学や東京音楽大学での数多くの公開レッスンの中で、自然に親しさを増していった。
私の学生で、国立音楽大学の卒業生である片岡真樹君と米倉孝君をインディアナ大学の大学院に迎えてくれたこと、静岡大学の北山敦康教授を旧文部省の派遣として1年間受け入れてくれたり、とても感謝している。また、1983年、私が45歳のとき、国立音楽大学の海外特別研究員の資格に合格し、インディアナ大学で研究をしたいと彼にお願いしたところ快く受け入れてくださり、大学と協議して訪問研究員(Visiting Scholar)の資格で6ヶ月の滞在をさせてもらった。滞在中はルソー氏の手配で大学院生用の寮に入ることができ、とてもありがたかった。その間に彼がヨーロッパに2ヶ月行くことになり、故ラリー・ティール先生が代講されるとのことになった。しかし、来られるのが急に1ヶ月遅れ、ティール先生がいらっしゃるまでは私が指導するようにとルソー氏から言われ、とても大変だったが良い経験をさせてもらった。さらに10年後にも、サバティカル(6年ごとにある1年の有給休暇)を取るので、1年間の代講を依頼された。国立音楽大学を1年も空けられないと断わったが、1学期だけでも、ということで担当することにした。当時としては破格の2万ドルをもらってびっくりしたのが、つい昨日のことのように思い出される。
Classic Saxの伝統的な奏法や音楽的な解釈についての彼の考え方はとても柔軟である。無理なく圧力をかける「ラウンド・アンブシュア」だけはよく言っていたが、その他は一定の奏法を強制することはなかった。
彼自身の信条としては、音色についてある範囲があるということ。Classicの音色はある範囲内で、Jazzの場合はそれよりも範囲が広いようだという意見を持っていた。
また彼が習った時代は、先生が次回のレッスンまでに「とにかく吹けるようにしてこい!」と言われたのが、今では「どう練習して吹けるようになるか」と学生に噛み砕いて教えなければいけないと説明してくれたのも印象的だった。

■師とのエピソード

ルソー氏の忘れられない思い出話は書き出せばきりがないが、常に向上的な考え方を持っていた。特に語学には熱心で、常にノートを持ち歩き、分からないことはメモし、それをマスターするという驚異的な方法で、日本語もほぼ不自由なく話せることは驚きに値する。
またルソー氏は学生たちをとても大切にしている。アメリカでのマスタークラスやクリニックでは、奥様と娘さんも手伝って最終日の朝に自宅から大きなコーヒーメーカーを持ってきて、ドーナツパーティをして和気藹々と親睦を図っている。
今では4人の孫と楽しく楽器を吹く、よいお爺さんの一面もある。

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石渡悠史
Yushi Ishiwata

★私が考える「Classic Sax」 いろいろな音楽の中の一部であるクラシックな音楽(ある一定の時代の西欧の伝統的な音楽)を演奏するということは、その中にある心そのものにClassic Saxの定義があると思う。私自身、故 阪口新先生に「品の良い音で音楽を演奏するように!」と常々教えられたのを今でも模索している状態である。なぜなら学生時代に1年下の作曲家故 八村義夫氏の七重奏『一息ごとに一時間』の演奏を依頼されたことがあり、2楽章のテナーソロでは「汚い音で」と要求されて困ったことがあったからである。 結局私の考える「Classic Sax」とは、内容が俗に言う「Classic」ならすべてそうではないかと考えている。現在の作曲家たちは、無謀な奏法や音色も要求してくるが、これもクラシックの範疇に入るのだろう。ストラヴィンスキーの大学での講義を本にした「The Poetry of Music」を昔読んだが、その中で、Jazzとクラシックを比較している内容を思い出した。これを機会にもう一度読み直してみたいと思っている今日この頃である。

 

Arata Sakaguchi 阪口 新

1910年生まれ。日本におけるClassic Saxのパイオニア。
イベールの『コンチェルティーノ・ダ・カメラ』をはじめ、数多くのサクソフォーンのオリジナル作品を日本初演し、紹介してきた。また、その活動はクラシックに限らず、ムードサックスやスタジオでの活動など、様々な場に於いてサックス演奏を担当。東京藝大などで教鞭を執り(元東京藝術大 学名誉教授)、育てた弟子も多数。現在日本で活躍するClassic Sax Playerの多くは、阪口氏に学んだか、その孫弟子にあたると言って過言ではない。今日の日本サクソフォン界の隆盛の礎を作った人物といえる。
著書である「サクソフォーン教則本」(全音楽譜出版社)は今でも名著として知られている。1997年11月没。

About Arata Sakaguchi  Navigator:冨岡和男

■その音楽観

私は実際に、阪口先生と音楽観に関するお話や講義のようなもの、あるいは論議をしたことがなく、師匠の音楽観について話すのは憚りを感じます。しかし長年師匠と接していて感じたことは、先生は音楽観などと論理的なことを口にする人でなく、ただただ音楽を、サックスを愛していたのだと思います。スポーツが好きだったこと、常にお酒を愛していたことのほか、これといった趣味をお持ちでなかったですし、学者然としたところを感じない、根っからの演奏家、エンターテイナーだったのです。言葉にするより自らの音楽表現でものを言っていた。また、ご自分の師と仰ぐ、大好きな演奏家を常に目指しひたすら邁進していたと思います。その師たちとは、マルセル・ミュール(Sax)、フリッツ・クライスラー(Vn)、ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn)、パブロ・カザルス(Vc)、マリア・カラス(Sop)などの巨匠たちです。

■学んだこと

先生がよく口癖のように言っていたことがあります。「ケチと一人っ子は音楽には向いてないね」……と。自分をさらけ出すような音楽表現、感情を表に出す表現を求められる演奏家、芸術家はケチではだめだ……ということですね。また、とかく独りよがり、我がまま、競争心の少なさ、など一人っ子の弱点のようなところが嫌いだったのでしょう。それから「死ぬまでサックスを吹いていたい」と言っていたことも印象的です。
また先生は言葉で教訓を言うようなひとではありませんでした。そのお人柄から弟子たちがいろいろ感じとっていたのでしょう。僕は先生の人間的な愛情、愛嬌、素朴さに今も憧れています。
先生は、独学でサックスを学んできたのです。あったのはM.ミュールのレコードと彼との文通……。ですから先生ご自身暗中模索のところがずいぶんあったと思われます。
確たる定義づけに自信がなかったのでしょう。私たち学生に奏法的な注文はあまりなく、もっぱら音程や音色についての注文が多かった。音楽的解釈についても講義は少なかったです。昔の日本的教授法といいますか、「弟子は勝手に師匠から盗め」という雰囲気ですね。
それがかえって、学生が自身で奏法や解釈を考え探していく力を身につけることにもなったのです。

■師とのエピソード

藝大生のころ、隅田川の連絡船で浅草から佃島までご一緒したことがあり、折しもその時肥船(都民の排泄物を積んだダルマ船)が東京湾を目指していたのです。当時は東京湾にそれをぶちまけて処理していました……。 「冨岡君、僕は肥船でしばらく働いていたのだよ、赤狩りから逃げるため身を隠していた……」とおっしゃった。先生は共産主義ではなかったが、反体制の人だったんですね。プロパガンダや戦争をとても嫌っていたようです。
また、先生は若いときから病気知らず、「贅沢な食生活を嫌い、毎晩アルコールで体内を消毒することだ」と。肥満のない若々しい体形で矍鑠(かくしゃく)としていましたね。ただし頭はこれにあらず、「ぼくは若禿げで青春がなかった」……と。

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冨岡和男
Kazuo Tomioka

栃木県出身。サクソフォーンを阪口新、大室勇一の両氏に師事。1969年、東京藝術大学卒業。卒業特別演奏会、NHK新人演奏会に出演。第38回日本音楽コンクール第一位入賞(楽器部門でサクソフォーンの一位は初めて)。リサイタル、オーケストラ、吹奏楽との共演、録音など幅広い演奏活動を始める。1974年、サクソフォーンクァルテット「キャトゥル・ロゾー」を主宰。1976年、80年には民音コンクール室内楽部門で管楽器では初めて二位に入賞。ワールドサクソフォーンコングレス日本代表としてフランス、アメリカ、ドイツ、日本、イタリアにて演奏。またNHK交響楽団、読売日本交響楽団など、オーケストラのサクソフォーン奏者としても活躍してきた。 日本管打楽器コンクール、ジュネーブ国際コンクールの審査委員、また、世界サクソフォーン評議会委員、等を歴任。 現在、洗足学園音楽大学学部長、東京藝術大学客員教授,作陽音楽大学特任教授。日本サクソフォーン協会事務局長。
★私が考える「Classic Sax」 僕はサックスを通じて音楽人になれたと、この楽器をとても愛しています。サックスの持っている魅力にゾクゾクします。でも僕の愛するサックスはどこまでもクラシック。音楽性、芸術性を追求する世界です(ジャズは嫌いではありませんよ、若いころは夢中でしたから)。もっと俗っぽい言い方をさせてください。 「限りなく高貴に、天上の声のごとく、感情に溢れ、そして人間の琴線に触れるもの」

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