サックス記事
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フレデリック・ヘムケ 音楽家がサックスを演奏する ─ それがクラシック音楽を演奏する者の役目だ

THE SAX vol.44 Cover Story

アメリカに生まれ、フランスのマルセル・ミュールの下で学んだフレデリック・ヘムケ氏。1956年にアメリカ人として初めてパリ音楽院を一等賞で卒業してからは母国に戻り、ソリストとして、また、ノースウェスタン大学教授のポストをはじめとする教育者として、幅広い活躍をしている。日本では RICOリード <ヘムケ> の監修者としても広く知られている存在だ。そんな氏が今年10月、アメリカのフルブライト財団のサポートにより、愛弟子である雲井雅人氏が教鞭を執る国立音楽大学を訪れ、2週間に渡って指導を行なった。
本誌では今号の特集に先駆けて、この “クラシック・サクソフォーン開花期の偉人” にインタビューを敢行。75歳とは思えないほどアクティブな氏は、時折ユーモアも交えながら、自身について、クラシック・サックスについて、大いに語ってくれた。

インタビュア:雲井雅人(サックス奏者/国立音楽大学講師)/ 翻訳:佐藤渉(サックス奏者)/ インタビュー撮影:土居政則


衝撃的な “神の音” との出会い

まず、あなたがサックスに出会ったきっかけを教えてください。
フレデリック・ヘムケ
(以下H)
私の父親はサックスを趣味にしており、書斎で練習したりしていたよ。それが、私がサックスを知ったきっかけだ。私が通っていた小学校には素晴らしい音楽教育のプログラムがあってね、10歳のころ、吹奏楽で演奏したいと思い始めて、父のサックスを借りて吹奏楽に入ったんだ。
サックス以前には楽器を演奏していましたか?
H
家にピアノがあって、さわってみたりしたけれど、全然興味が持てなくてね(笑)。だから、私の最初の楽器はサックスと言える。小、中学校の吹奏楽やマーチング・バンドでサックスの奏法を学んだほか、アンサンブルの楽しみも味わったよ。
高校に進学したころからはジャズの演奏を始め、ダンス・バンドを結成し、人前で演奏をしていた。そのころから私はかなり真剣にサックスに取り組んでいたから、ついに私を教えられる先生が周囲にいなくなってしまったんだ。そこで本当のサックス・プレイヤーから、自分のレッスンを受けることを勧められ、彼のもとに通い始めた。するとすぐに、彼はマルセル・ミュールの録音を聞かせてくれた。その演奏には、「サックスとはどんな楽器であるのか」という私の考えを完全に変えてしまうほどの衝撃があったんだ。
私は高校生活を通して、ダンス・バンドでの演奏を続けながら、その先生のもとでフランスのレパートリーを学んでいった。それから大学に進んだのだが、大学では自分がリーダーのダンス・バンドを始めた。その名も “Fred Hemke-The Band with The Style” !! (気品溢れるフレッド・ヘムケ・バンド!!) そのバンドではだいぶ小遣い稼ぎをしたものだよ(笑)。
マルセル・ミュールのもとに行ったのは?
H
大学3年生の時、更なる勉強のためにマルセル・ミュールに手紙を書き、学生として受け入れてくれるかどうか聞いてみたんだ。
するとミュールは返事をくれ、パリ音楽院は手紙や推薦状では生徒を受け入れることはできず、現地で試験を受けなくてはならない、と教えてくれた。そこで私はダンス・バンドで稼いだお金と父親から借りたお金を合わせて、試験少し前の夏にフランスに行ったんだ。大学ではフランス語の授業を受けたりしていたから、現地でも少しは話せるかと思っていたんだが……実際はまったく通じなかったのをよく憶えているよ。
僕もアメリカに着いてまもないころは同じでした(笑)。
H
そうそう、そうだったね(笑)。でも、君もそうだったように、私も現地に住んですぐに話せるようになったよ。その後、ミュール先生に連絡をとり、試験の日程を教えてもらった。彼のクラスの定員は12名で、その他に一つの留学生枠があったんだが、彼は私を通常のフランス人定員枠に入れてくれ、週に3回のレッスンが受けられるようにしてくれたんだ。
週に3回も、ですか?
H
12人の学生がそろい、週に3度、4時間ずつのレッスンが行なわれるんだ。
自分が実際に指導を受けるのは週に1時間だけれど、他の時間はミュール先生が教えるのを見学していた。他にも、フランス人枠の学生証が交付されたことにより、カフェテリアでの食事はほぼ無料になったし、コンサートなんかも学生割引で入ることができるようになった。この留学では、サックスや音楽だけでなく、フランスの文化を学ぶことができたと思っているよ。

“音楽” のつくり方を学ぶ

留学から戻ってすぐに仕事に就いたのですか?
H
いや、留学から戻ると学位のために大学の3、4年次を終えなければならなかった。  その後、中学校にバンド指導者として2年間勤めたが、これが私の一生続ける仕事ではないと思い、イーストマン音楽学校で修士号を取ることを考えた。当時イーストマンにはサックス科がなかったので、指揮科のフレデリック・フェネル氏に相談すると、「私のウインド・アンサンブルに在籍するように。他のことは私が何とかする」と言ってくれたんだ。
私はクラリネット、フルート、オーボエ科の教授からレッスンを受けることになり、モーツァルトやバッハなどを学んだ。サックスの技術ではなく、本当に「音楽」をつくることができるのかどうか、ということを問われ続けた2年間だったよ。
その後、博士課程に進むことも考えたんだが、私の学生生活を妻が働いて支えてくれている状況だったので、何か自分でも仕事を始めなければと思い、ニューヨークでのリサイタルを行なった。そのリサイタルにはシガード・ラッシャーやベニー・グッドマンも来てくれたよ。 そして演奏は大成功し、新聞には非常にいい記事が載ったんだ。
すると、すぐに私のもとに“電報”が届いて……当時 E-mail がなかったのは知ってるかな?(笑) 電報はノースウェスタン大学からのもので、「うちの大学でサックスを教える仕事に興味があるか?」と書いてあった。何の仕事もなかった私は「もちろん!」と返事をして以来、教え始めて来年で50年になる。
50年とはすごいですが、アメリカの大学には定年がないのですね?
H
大学で決められた年齢はない。私は今75歳だが、死ぬまで続けることも可能なんだ。そうしたいかどうかは別だけれどね(笑)。身体か精神に支障が出てきても続けるのは難しい。幸い私の身体はいたって健康でね、精神のほうは分からないけど(笑)。
そういえば私がノースウェスタン大学で教え始めた当時のアメリカでは、ラリー・ティールがミシガン大学で教えていた他に、大学のサックス科はどこにもなかった。それからずいぶん長い時間が経ったものだね。
フレデリック・ヘムケ

 


次ページにインタビュー続く
・オルガンと共演する理由
・ボタン・プッシャーにならないで!
・サックス愛好家同士、学び合う姿勢を持ちましょう

登場するアーティスト

ソリストとしても教育者としても幅広い活躍をしているアメリカのサクソフォン奏者。1956年にパリ音楽院でアメリカ人として初の一等賞を獲得。1962年にはイーストマン大学にて教職の道に就き、1975年以来ノースウェスタン大学で教授を務める。その他、パリ音楽院やアムステルダムのスウェリンク音楽院など、ヨーロッパの大学でも客員教授として指導に当たり、多くの優れたサクソフォニストを育てている。一方、ソリストとしてもシカゴ交響楽団、セントルイス交響楽団、東京交響楽団など、著名なオーケストラと共演。RICOリード<ヘムケ>の監修者としても知られている。

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