画像

09|学校生活について

文化と歴史と国際交流

What's えびちゃん留学記 ...

自分が感じる「違い」はなんなのだろう───
演奏の違いから様々なことを探求して行った留学時代と海外生活時代を振り返りながら、現地の情報もお届けします。ファゴット奏者で、指揮、講演、コンサートの企画、オーガナイズ、コンサルティング、アドバイザーなど様々な活動をする基盤となった海外留学とはどんなものだったのか。思い出すままに書いていきます。

Text by ...

蛯澤亮

蛯澤 亮
Ryo Ebisawa


茨城県笠間市出身。笠間小学校にてコルネットを始め、笠間中学校でトランペット、下妻第一高等学校でファゴットを始める。国立音楽大学卒業。ウィーン音楽院私立大学修士課程を最優秀の成績で修了。バーゼル音楽大学研究科修了。 ザルツブルク音楽祭、アッターガウ音楽祭、草津音楽祭などに出演。元・ニューヨーク・シェンユン交響楽団首席奏者。茨城芸術文化振興財団登録アーティスト。ファゴットを馬込勇、ミヒャエル・ヴェルバ、セルジオ・アッツォリーニの各氏に師事。 「おしゃふぁご 〜蛯澤亮のおしゃべりファゴット」を各地で開催、クラシック音楽バー銀座アンクにて毎月第四金曜に定期演奏、池袋オペラハウスにて主宰公演「ハルモニームジーク 」を毎月第二水曜日に開催するなど演奏だけに留まらず、様々なコンサートを企画、構成している。

 

 

 

 

学生生活の始まり

ザルツブルク音楽祭からウィーンに帰ってきて学生生活が始まった。私が最初に入ったのは日本の“別科”に相当する実技科目だけのコースだ。専攻楽器の他に室内楽やオーケストラなど楽器に関するレッスンのみ。実際はとても余裕のある日程だったので九月はドイツ語学校にも通っていた。

日本と違ったのは、決まった時間にレッスンがないことだ。日本の大学でも専攻楽器のレッスンは決まっていなかったが、室内楽やオーケストラはきちんと決まっていた。しかし、オーストリアはそういった大人数のレッスンでもその都度日程を決めるのだ。基本的に授業のある正規の学生を中心に日程を決め、それで間に合わない場合は、学生が合わせの時間を取るといった形だった。

私が最初に室内楽のレッスンを受けたのは、ウィーン交響楽団のフルート奏者ウーリック氏だった。 一見厳しい感じのお母さんという感じだったが、実際はとても優しく面倒を見てくれた。その次は当時ウィーンフィル首席オーボエになって間もないヘアト氏。彼は入試の時に私を気に入ってくれたようで、彼が担当する室内楽クラスのファゴットパートはすべて私が担当することになっていた。ヘアト門下の卒業試験にもプーランクのトリオで演奏を頼まれたりしたし、仲良くさせていただいた。 また、推薦状を書いてもらったこともあった。

ウィーンで教える教師陣の面白いと思ったことは、楽器を吹かないことだ。日本では楽器を常に持って何かあれば見本を見せてくれたりするのが当たり前だったが、ウィーンではそういう先生はかなり稀だ。ヴェルバは基本的にオペラ座か楽友協会に楽器を置いてレッスンにくる。合間に練習したいときやリード調整をしたい時にしか楽器を持ってこない。しかし、マスタークラスではいつも楽器片手にレッスンしていた。意外に、門下生になっても彼の音は間近で聴けないのだ。

他の先生たちもそうだった。みんな楽器ケースすら持っていないことが多い。しかし、不思議と弦楽器の先生はみんな楽器を持っていた。楽器によってギャップがあるようだ。

いろいろな国の友人と

ウィーンはとにかく外国人が多く、様々なことを学んだ。それはただのコミュニケーションだけではなく、元々持っていた印象や歴史の認識を変えるきっかけにもなる。

私は近代史(※1)をこれといって勉強したわけでもないが、先の大戦以降、日本人はアジア人に嫌われていると思っていた。もちろん、表には出さないがどこかにそれがあると思っていた。しかし、台湾人の友人ができてその認識が変わった。台湾人は日本語を知っている人が多い。ある日、友人に「なんでそんなに日本語上手なの?」と聞くと、「私の祖母は日本語を話せるから」とこともなげに言った。私は申し訳ない気持ちになったが、彼は「私の祖母は日本が大好きだからね」と言う。そこで疑問が浮かんだ。「どういうこと?」先の大戦を起こした日本は悪いと教えられてきた私は、そこから少しずつ調べるようになった。すると、全く別の話が出てきて、歴史とはこうも難しいものかと思った。実際に触れてみないと気づけないこともあるのだ。
(※1)学校で習う範囲

それから台湾の内情も聞いた。今でこそ台湾の話題が取り上げられるが、当時は台湾の話題なんて全く上らなかったのですべてが新鮮だった。

また、韓国人も友好的な子ばかりだった。とても情熱的というイメージで、仲良くなりたいと求婚する勢いでグイグイ来る女の子もいた。

オーストリアならではだったのは、北朝鮮人の友人ができたことだ。オーストリアはスイスのように有名ではないが、永世中立国ということになっている。北朝鮮とも国交がある。私が住んでいた家の近くには大使館があった。拉致被害者5人の帰国から三年ほどしか経っていなかったので様々な気持ちが湧いてきたが、学生たちはみんな良いやつで(男しかいなかった)、とても勤勉だった。しかし、その中で真面目にやっていそうで全く成長がなく、馴染まない学生がいた。おそらく彼は本当の音楽学生ではなく学生に扮したお目付役だったのだろう。これには詳しくnoteに書いたので、もしご興味があったらお読みいただければと思う。

オーストリアは多民族国家ということもあってオーストリア人と言ってもハンガリー系だったりチェコ系だったり様々だ。また、ウィーン人かオーストリア人かで区別したりもする。やはりウィーン人はプライドが高い。

ポルトガル人やイタリア人の色男はやはり女好きで「期待を裏切らないなぁ」と感心することもあったし、ロシア人はやはり酒に強かった。色々な人を知ることで色々な世界を見ることができる。日本人が圧倒的多数である日本に住んでいるとわからない感覚が、たくさん生まれてきた。

今でもたまにフェイスブックで季節の挨拶程度を交わすのはオーストリア第二の都市グラーツのあるシュタイヤーマルク州出身の同級生だ。その後進学する大学院では半年先輩だったが、同い年で、不思議と今でも絡みがあるくらいのんびりと仲が良い。シュタイヤーマルクはウィーンに近い割になまりが強く、近いようで遠く、遠いようで近い。まるで私の地元、茨城県のようなところだ(笑)。そんなところもなんとなく雰囲気が合ったのかもしれない。

留学で面白いことの一つは全く違う文化に触れること。そこには昔と今の国家間の関係から宗教観、民族性まで様々な違いがある。これから留学する方々はぜひそれぞれの違いを楽しんで欲しい。

 

 


 

次回予告 :オペラ座に通う日々

記事一覧 | Wind-i&mini
トピックス | レッスン | イベント | 人物 | 製品