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東京フルートアンサンブル・アカデミー フルートオーケストラの“あけぼの”に

今年創設45周年を迎えた、東京フルートアンサンブル・アカデミー。1974年、武蔵野音楽大学フルート科で 教鞭をとっていた、播博、植村泰一、斎藤賀雄、佐伯隆夫、佐野悦郎、青木明の各氏が、共通の友人であった 野口龍氏ほか仲間や門下生などとともに立ち上げたフルートオーケストラだ。まだ日本ではフルートオーケストラという 存在があまり知られていなかった時代からの活動、作曲家であり盟友でもあった廣瀬量平との交流 ――この11月にメモリアルコンサートを行なうメンバーたちを代表して、播博氏と青木明氏に話を聞いた。 取材協力: 株式会社プロ アルテ ムジケ

演奏者との会話から生まれる音楽

――
今でこそフルートアンサンブルの団体が全国で活動していますが、東京フルートアンサンブルアカデミーを45年前に始められたときは、フルートだけのアンサンブルは珍しかったのですね。
そうですね。『祭り』で知られるケシックというミラノ出身の女性作曲家がフルートオーケストラの曲に取り組んでいて、彼女の弟子たちが12人のアンサンブルで活動していたのが最初だったようですね。私たちもメンバーが12人いたので、ちょうどよかった。
アカデミー創立の年は、私が留学先(オーレル・ニコレ氏に師事)から帰ってきて、武蔵野音大に復職した年でした。
青木
我々教員も、学生を叱咤激励するだけじゃなくて、何か積極的にやらなければ……という気運がありましたね。 しかしフルートオーケストラは全員初めての試みで、一般の人たちに広く知ってもらうためには、何か確立したものがなければならなかった。そこで登場したのが廣瀬量平氏です。
――
今年は廣瀬量平さんの没後10年という節目の年でもありますね。『ブルートレイン』をはじめとする廣瀬さんの作品は、日本でフルートオーケストラが広まるきっかけになったともいえます。そんな廣瀬さんとアカデミーの皆さんとは、どんな関係だったのでしょうか?
青木
もともと仕事を通じた知り合いではありましたが、アカデミーのためにフルートオーケストラの曲を書いてもらうようになって、より関係が深まっていきましたね。
彼の作曲のしかたというのは、かなりユニークでした。いつも4Bか6Bの鉛筆を持っていて、一緒にいるときでも何もしゃべらなくなったな、と思うとその鉛筆で紙に音符をサーッと書きつけて「できた!」というんです。しかし、本当に「できる」のは、そこから数ヶ月後で。「できた」というのは、テーマができたということだったようです(笑)。
当時、廣瀬さんからよく電話がかかってきていました。1時間や2時間話していることはザラで、「こんなのはどうだ」とか言いながら、ピアニカを電話口で鳴らすんです。それで話が終わると急に電話が切れて……メンバー全員、そういう経験をしています(笑)。そうやって曲ができ上がっていきました。
廣瀬さんのすぐれたところは、演奏者の意見を作曲に取り入れて、アドバイスされたらそれを受け入れ、反映させるんですよね。威張ったところのまったくない人でした。
青木
場合によっては「ここアーティキュレーション付けといて」なんて言われることもありましたよね。演奏者とのコミュニケーションを大切にする作曲家だったんですね。
1980年に発売された、東京フルートアンサンブル・アカデミーのLPレコード。廣瀬作品は『ブルートレイン』と『マリンシティ』を収録している
 

アイデアとひらめきと経験と……

――
今回のコンサートのプログラムには、『ブルートレイン』が入っていないのですね。
そうなんですよ。実はこれ、アンコールでやるためにプログラムには入れてないんです。昔から、この曲はアンコールで、しかも2回やるというのが通例になっていました。メモリアルコンサートなので、そんなところまで再現したいという思いがあったんですね。
青木
播先生は、そういうアイデアをたくさん持っている“ひらめき”の人ですね。
僕はもともと作曲家志望だったので、廣瀬さんとも通じるものがあるのかもしれません。
――
そうだったのですか。
高校生の頃から、いつも頭の中にメロディが鳴っていましたね。音大の作曲科に入ろうと思っていたのが失敗して、紆余曲折を経て最終的にフルートをやることになった。そんなわけで、フルートに関しては人より遅れているという自覚があったので、大学に入ってからは四六時中練習しました。
僕は北海道の函館出身で、廣瀬さんと同郷です。思えばフルートオーケストラのだいぶ前から彼とは因縁があったんです。北海道で作曲のコンクールがあって、僕も応募したんですが、そこで優勝したのが彼でした。さらに遡って、実は同じ小学校を卒業していて、彼と僕の兄が同級生だったことも後からわかりました。
――
廣瀬さんも、異色の経歴の持ち主だったそうですね。
北海道大学の教育学部を卒業して、札幌音楽院にて荒谷正雄氏のもとでドイツ音楽を学んだことをきっかけに音楽を志しました。2年間学んだ後、今度は東京藝大に入りました。
青木
そんな彼のいろいろな経験が、曲に反映しているんです。たとえば『パピヨン』という曲は、新種の蝶が発見されたことや、蝶の大群が渡り鳥のように北米から南米へ移動して、最終的にどこへともなく消えていく、という話から着想を得て作ったようです。まるで煙のように見える膨大な数の蝶という力強い生命、そしてそれらが跡形もなく消えてしまうという不思議……そんな神秘を曲に込めたのだと思います
――
そういったエピソードを頭のどこかに置いてコンサートを聴きに行ったら、音楽がさらに楽しめそうですね。

 

この後も、廣瀬さんとの思い出話は尽きず……日本にフルートアンサンブルという風が吹き込まれた時代の貴重なお話、ありがとうございました。

 

Concert information
廣瀬量平フルートオーケストラ三部作楽譜出版記念・没後10周年
東京フルートアンサンブル・アカデミー創設45周年 メモリアルコンサート

[日時] 11月11日(日) 13:30開演
[会場] 上野学園 石橋メモリアルホール [料金] 全自由席
一般¥4,000(フルート協会会員3500円)、学生¥3,000
[出演] 青木明・播 博(Cond)
播 博、青木明、植村泰一、野口 龍、佐伯隆夫、 佐野悦郎、中野真理、三上明子、高久進、崎谷直、崎谷美知恵、野口文子、前田有文子、古田土勝市、大石三郎、永井由比、吉田みのり、都村慶子、清水理恵、本田幸治、菊池かなえ、折原美佐子(以上Fl)、渡辺かや(Harp)、廣野嗣雄(Org)
[曲目] マリンシティ(1980)、フィガロの楽しき時代(1991)、パピヨン(1980)、パーラミターとカーダ(1980) Alto-flute Solo:野口龍、リスと踊るコロポックル(1998)、森のコロポックル(1996)1st.Picc.Solo: 高久進/2nd.Picc.Solo: 本田幸治、リチュアルダンス典礼風舞曲「雨乞い」(1988)、午後のパストラル[編曲:山上友佳子] Flute Solo: 三上明子 (1985/2018)、《朝のセレナーデ》より 第一楽章(2003)、<甘き死よ来たれ>J.S.バッハの旋律による前奏曲、フーガ、終曲(1994/1995) Organ: 廣野嗣雄
[チケット取扱い]
プロアルテムジケ 03-3943-6677、www.proarte.jp
首都圏各楽器店
[主催] 東京フルートアンサンブル・アカデミー
[後援] 一般社団法人 日本フルート協会
[協賛] 株式会社 龍角散
[協力] 株式会社音楽之友社、THE FLUTE編集部、廣瀬量平・事務所
[問合せ] プロアルテムジケ 03-3943-6677


プロフィール
東京フルートアンサンブル・アカデミー
1974年に創設。武蔵野音大フルート科で教鞭を執っていた、 播博、植村泰一、斉藤賀雄、佐伯隆夫、佐野悦郎、青木明らが、学生たちを批評するばかりではなく、我々もアンサンブルをやろうと、さらに共通の友人であった野口龍、気心のあった仲間や門下生(崎谷直、崎谷美知恵、清水信貴、高久進、三上明子、阿南文子、小林みのり、前田有文子、加藤千香子)で立ち上げたフルートオーケストラ。当初は小編成で演奏していたが、多くのメンバーが参加できる編成の曲が少なく、モーツァルトのディベルティメントを播博が、ロッシーニのソナタを青木明が編曲していた。そこで行き当たったのが、「フルートオーケストラ」という言葉をはじめて使ったケシック(当時、伊ミラノ音楽院のフルート科教授)の「祭(Fiesta)」という曲であり、これを12人でアンコール演奏したのが最初の「フルートオーケストラ」演奏となった。団長の播博がこの時の演奏テープを持って廣瀬量平のもとを訪れ、委嘱したことから廣瀬とアカデミーとの交流が始まった。

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