This issue’s Guest:本城和治さん(音楽プロデューサー)

神崎ひさあき Come to me! │ 最終回

「OPEN MY ROAD」のコラージュのジャケットは植草甚一デザイン

神崎オン・ザ・ロードはそこから結成されたのですか?
神崎
僕がメンバーを集めました。レコード会社とは僕個人の契約だったので、僕が全部責任を取らなくちゃいけなかったので、グループ名に“神崎”の名前を入れて。当時は“グループ名に名前を入れると売れなくなるよ”って言われたんですけど、生意気ざかりだったから“大丈夫、ご心配ご無用”ってね(笑)。
本城
なかなかいいメンバーがそろっていましたよね。
そしてファースト・アルバム「OPEN MY ROAD」が1980年にリリースされます。当時の反応などはいかがでしたか?
本城
いい作品ができたなと思いました。六本木ピットインでやったライブに評論家の先生たちにたくさん来ていただいたんですけど、けっこう好評でした。その中に植草甚一さんもいらっしゃって、実は「OPEN MY ROAD」のコラージュのジャケットは、植草さんがデザインしてくださったんです。
神崎
あのアルバムはリリースしてすぐに、すごく売れたんです。でも僕一人で全部を仕切っていたので、責任感のほうが強くなりましたね。
本城
レコーディングにはちょっと時間がかかったよね。マウスピースを選ぶのがたいへんで(笑)。あとよく練習していたよね。練習の鬼だった。
神崎
当時からずっとそうなんですけど、フレーズを流麗に吹けるより自分の音そのものに感じないとグッとこないんですよ。それで本城さんには迷惑をかけました(笑)。
当時はどんなマウスピースを使っていたのですか?
神崎
メイヤーでしたね。当時はメタルのマウスピースも、あまり日本に入ってきていなかったし。

神崎オン・ザ・ロードがあったからこそ人間的に成長できた

神崎さんと制作したアルバムで、思い出深い作品などはありますか?
本城
神崎オン・ザ・ロードではアルバムを3枚作ったんだけど、いちばん印象深いのは2作目の「Little Road Gang」のレコーディングで、マイク・マイニエリに参加してもらったことですね。神崎くんの曲想とマイニエリのプレイ・スタイルがすごくフィットすると思ったんです。ちょっと哀愁漂って。あれはいいコラボでしたね。あれは神崎くんが一緒にやりたいって言ったんだっけ?
神崎
本城さんの提案があったと思います。ちょうどレコーディングをやっていた時に、彼がニューヨーク・オールスターズのツアーで日本に来てたので、ぜひ参加してもらおうと。それで彼とやってみて、これはヤバいぞ、アメリカのミュージシャンは音楽の発音も流れも全然違うなって現場で体験して興味を持ち、そこから海外のミュージシャンたちともっとやりたいなと思うようになりました。
本城
テイク2くらいで、文句の付けようがない演奏をするんですよね。素晴らしかったですね。
神崎
それにすごく優しくて、いろいろアドバイスもくれました。
いま思い返してみると、神崎オン・ザ・ロードの活動は、神崎さんのキャリアにとってどういう位置付けだったのでしょうか?
神崎
若気の至りです(笑)。得たもの失ったもの半々かな。神崎オン・ザ・ロードがあったからこそ、人間的に少しは成長できたと今思いますね。平均年齢24,5歳のインストバンドがいきなり売れてしまって、演奏以外のことを一人でいろいろやらないといけなくなってしまって、結果的に身体をこわし、頭もパンクして、いろいろな方に迷惑をかけてしまいました。それで一旦リセットし将来をゆっくり考えるためもあってアメリカに行ったのです。
神崎オン・ザ・ロードの音楽を今の若いサックス奏者たちが聴く場合、こういうところに注目してほしいといったものはありますか?
神崎
やっぱり熱を感じて欲しいですね。熱と工夫はあったと思う。今はみんな上手いし、難しい曲を簡単そうに演奏するけど、そこに熱と自分なりの工夫とハプニングがあるかどうかが大事なんだと思います。
本城
それはわかるね。神崎オン・ザ・ロードの音楽は、パッと聴くとスマートなんだけど、神崎くんが根本に持っている泥臭さみたいなものがにじみ出てて、そこがいいんだよね。
神崎
洗練されたものは目指しているんですけど、その中に自分なりの工夫とハプニングをさらに目指しているんです(笑)。
 
 
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