サックス記事

神崎ひさあき Come to me! │ 第5回

This issue’s Guest:山田敬三さん(ヤナギサワ・クロッシュ)

日本のフュージョン〜スムース・ジャズ・サックスの先駆者として1980年代からシーンを牽引し、デビュー40周年を迎えた現在も国際的に活躍を続ける神崎ひさあき。その神崎をホスト役に、毎回ゲストを迎えてトーク・セッションを繰り広げる連載「Come to me!」。 今回も4回目の緊急事態宣言中となり本連載も対面取材が難しい状況となった。そんななかリモート対談に登場していただいたのは、神崎の楽器リペアを一手に引き受ける「ヤナギサワ・クロッシュ」の山田敬三さんだ。神崎が全幅の信頼を寄せるサクソフォンの匠との対話からは、楽器を通じたミュージシャンとリペアマンの理想の関係が浮かび上がってきた。
(文:熊谷美広)

理論だけではなくて経験や感触を大切にする昔気質の職人

そもそも神崎さんがヤナギサワのサックスを使い始めたのは、いつ頃からですか?
神崎ひさあき
ブラスバンドで中学1年生の時から使っていました。でも中学3年生の頃に親にセルマーを買ってもらって、それからはずっとセルマーだったんですけど、1982〜83年頃にお世話になった管楽器専門店ダクの坂巻さんという方に柳澤管楽器へ連れて行ってもらって、そこからまた吹くようになりました。柳澤管楽器の職人さんたちも大勢で僕のライブによく来てくれてね。
ヤナギサワをメインの楽器として吹くようになった理由は?
神崎
息がどんどん入っていって、限度がなかったんです。飽和しないというか。そして、今はもう関係の長い身内感覚で吹いているかな(笑)。
神崎さんと山田さんとの出会いはいつ頃ですか?
山田敬三
1990年初頭くらいからですね。僕は入社当時は工場で働いていたんですけど、入社して7年後にリペア部門に転属になって、そこで神崎さんの楽器をお世話させていただくことになりました。
ということは30年来のお付き合いということですね。
山田
そういうことになりますね。最初の頃はまだ若かったですから、僕なんかが神崎さんの楽器を調整させてもらっていいんでしょうか、という感じでした。でも神崎さんが僕のことを気に入っていただけたのか、「山田君、やってよ」って言っていただけるようになって。
約30年間付き合ってみて、お2人それぞれの印象はどんな感じですか?
神崎
やっぱり職人ですよね。理論だけではなくて経験や感触を大切にしたり、義理人情に厚かったりする、昔気質の最後の職人だと思いますね。それに彼は研究熱心というか、みていると若い頃からセルマー、キング、コーン、マーチンとかいったいろいろなメーカーの古い楽器を自分で買って吹いて吹奏感や機能を理屈ではなく身体で知っているんですよね。
山田
研究というよりは、趣味ですね(笑)。
山田さんから見た神崎さんの印象は?
山田
僕はいろいろなミュージシャンの方を担当させていただいてますけど、神崎さんは実はすごく繊細なんです。楽器のバランスにちょっとした違いがあったら、すごく気になって、もう吹けなくなってしまうくらい繊細な方ですね。
山田さんから見た、サックス奏者としての神崎さんはどういうイメージですか?
山田
唯一無二というか、一曲一曲にすべての魂を込めていて、ライブを見せてもらっても胸がいっぱいになるんです。自分の身を削って音楽を表現しているという。特にこの何年かは、それがさらに増していると思います。

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神崎ひさあき

神崎ひさあき
日本のフュージョン・ブームをリードした「神崎ON THE ROAD」を結成し、1980年「Open My Road」でデビュー。以降、国内で3枚のアルバムをリリース。1986年に渡米し、1988年、リッピントンズのラス・フリーマンらを迎えアルバム「KANZAKI」をリリース。帰国後、数々のTV番組や映画等のテーマ曲を担当。自作の『So Far Away』(マイケル・ホワイトがリリース)は、全米ジャズ・チャートで第9位に。盟友マイケル・パウロとのプロジェクト“The Asian Soul Brothers”など、グローバルな活動を展開中。http://www.kzsax.com/

山田敬三

山田敬三
1983年に柳澤管楽器株式会社へ入社。工場取付部にてサクソフォンの製造に携わる。1990年に修理部へ異動。1995年に修理部のみ現在の新宿へ移転し、ヤナギサワ・クロッシュとしてオープンし、現在に至っている。

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