サックス記事 ジャズジャイアント、Steve Grossman スティーヴ・グロスマン 追悼
TEXT: 吉田 正広

ジャズジャイアント、Steve Grossman スティーヴ・グロスマン 追悼

生ける神話、最後の野獣系ハードバッパー

じりじりと照りつける日差し。夏真っ只中の8月は例年と変わらない暑さとなったが、新型コロナウイルスの影響で日々の過ごし方は例年通りとはいかなかったのではないだろうか。そんな中SNSから突然飛び込んできた訃報。

アメリカを代表とするひとりとして知られるテナータイタン、スティーヴ・グロスマン氏(Steve Grossman)が8月13日、ニューヨーク州にあるグレン・コーヴ病院で死去。享年69歳だった。死因は長い闘病による心停止によるものと実の弟が現地メディアで語った。

スティーヴ・グロスマンは1951年に米ブルックリンに生まれ、兄弟と組んだバンドでサックスを演奏。ニューヨークにあるジュリアード音楽院で学んだ経験もあり、幼少期からジャズに造詣が深い。そんな彼が18歳の頃、マンハッタンでの演奏を聞いていたジャズの帝王マイルス・デイヴィス(Tp)にスカウトされ、ウェイン・ショーター(Ts)の後任としてマイルスバンドのメンバーとして加入。その後の1971年-1973年の3年間はエルヴィン・ジョーンズ(Dr)のバンドに在籍し、日野皓正、菊地雅章、中村照夫など多くの日本人ミュージシャンとも共演を重ねた。日本には3度来日しており、2015年10月に行なわれた全国ツアーや、ジャズクラブ「SOMEDAY」で1週間のライヴを興行したのが記憶に新しいのでないだろうか。

彼の音楽性は誰もが称賛する素晴らしいものである一方、破天荒な生活ぶりは賛否を呼んだ。アルコールやドラッグの存在が彼を苦しめ、一緒に音楽を創り上げる仲間と揉めることも少なくなかった。そう語るのは80年代からグロスマンと苦楽を共にした日本人ドラマー吉田正広氏だ。数々のアルバムやツアーに参加した吉田氏のリアルな話は本邦初公開ではなかろうか。THE SAXが独占取材を行なった。

グロスマンの音楽、人となり

彼は昔の偉大なジャズプレイヤー、チャーリー・パーカー(As)、デクスター・ゴードン(Ts)、ジョン・コルトレーン(Ts)等々を心から愛し、9歳の頃から毎日サックスばかりを練習するサックスオタクであった。サックスに人生を賭けたといえるだろう。ただ、エルヴィン・ジョーンズ(以下エルヴィンと略す)のような本当の天才で神の使いのような人とは違い、天才に憧れ、生き方も天才のように破天荒に生きたかったKind of geniusだったように思う。

彼のようなユダヤ系ジューイッシュは頭は良いが、昔の黒人のようにはなれないことは悩みのようにみえた。
彼の音は鋭く、ラテンライクなサウンドが好きなようだった。聞き分ける耳と記憶力は桁違いで、コピー能力は素晴らしかった。コルトレーンやデイヴ・リーブマンのコピーをするにしても、単にフレーズだけでなく音色やニュアンス、はたまた精神的な同調まで感じられるほど完璧だった。
70年代にはスティーヴ・グロスマン(以下グロスマンと略す)ならではの独特のサウンドを研究しているようだったが、80年代に入ってからはソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーンからの影響を間近にいて強く感じた。


人間としては社会常識を考えるような人ではなく、弟子のサックスを「マイルスの仕事があるからちょっと貸してくれ」と言ってすぐ質屋に持っていったり、金持ちの親に無心しては薬物を買ったりしていた。最初のレコーディングの時も、エンジニアのデヴィット・ベイカーが「ブロークンガイ」と呼ぶほど怒っていた。曲も勝手に吹き始めて皆がそのあとを追いかけるといっためちゃくちゃな状態で、『チュニジアの夜』もテイク1が抜群の出来だと喜んだら、テープを回す前に始めてしまったので何も録音できていないとデヴィット・ベイカーがカンカンに怒っていた。とにかく自分勝手な人なので、色々なメンバーと喧嘩ばかりしていた。なぜか僕はまったく気にならず、むしろ可愛いと思っていたけどね。

グロスマンとの思い出

私が最初にグロスマンに出会ったのは1983年ごろ。ニューヨークチャイナタウンにあったマイク・スターン(Gt)の奥さんが経営していたライブハウスで初めてグロスマンの生演奏を聴いた。それまではエルヴィンのグループの「ライブ・アット・ライトハウス」でデイブ・リーブマンと2テナーでの演奏を聴いて憧れていた存在だった。

グロスマンは『チュニジアの夜』を演奏していたが、白目をむき、雷が天井を突き抜けるような信じられない大きな音で吠えまくっていた。私はそれまで日本で、コルトレーンじゃなければ音楽じゃないとまで思っていたので、その一部を感じさせるグロスマンの音に感激した。
演奏終了後控え室にグロスマンを訪ね、いろんな話をした。彼はそのころのメンバーをとても気に入っていて、早くレコーディングしたいと思っていたようで、私も一年滞在したニューヨークの集大成に録音しておきたかったので話がすぐ決まった。その時最初にできたアルバムが「ホールド・ザ・ライン」である。



その後、日本でもツアー、レコーディングなどたくさんするようになり、全国を回ったが、毎日が驚き(ぶっ飛び)の連続だった。日本ではドラッグが違法なので、咳止め薬を大量に飲み移動中の新幹線のホームでひどい痙攣を起こし、2度も救急車に付き合わされた。その頃から彼はイタリアに住み始め、私も何度か遊びに行った。フランスでも演奏した。その後、グロスマンのサウンドはどんどん時に逆らうかのようにビバップサウンド主体になってきたので一緒に演奏することもなくなった。

戦友へのメッセージ

突然の編集者の方からの電話で、グロスマンの追悼という言葉で「え?追悼って彼は死んだのですか?」と聞いてしまったくらい私はまったく知りませんでした。エルヴィンとグロスマンは私の人生を根本から変えてしまった人たちでしたので、本当に残念なことです。まだ60代の彼はこれからもまだまだ演奏活動をしたかったと思います。
一緒にやっていた頃のグロスマンは凄かった。世界で他に代わる人はいないくらい唯一無二の存在でした。通常では学べない多くのものを経験させてもらいました。
確かに彼は社会的にはジャンキーでありブロークンガイかもしれないが、現代社会の良い子だらけのありきたりの音楽より、いつも満足できずに叫びまくっていたあの頃のグロスマンが私は大好きだった、と今更のように思う。

心から冥福を祈ります。

吉田正広

 

<推薦YouTube動画>

『Some Shapes To Come 』(1974)

 

『Terra Firma』(1977)

 

『Love Is the Thing』(1985)

 

『My Second Prime』(1990)

 

『Do It 』 (1991)

 

ライターProfile

吉田 正広

Masahiro Yoshida

横浜生まれ。高校生の頃よりドラムを始め、富樫雅彦、ジョージ大塚氏らに師事、19歳の時ジョンコルトレーンのレコードに出会い、強い衝撃を受け人生を決定付けられた。21歳からプロ活動を始め、1978年、エルヴィン・ジョーンズ氏来日時より弟子となり渡米、以後25年間エルヴィンが亡くなるまで毎年世界ツアーに同行、言葉では言い表せない多くのものを学んだ。1983年二度目の長期渡米中、多くのミュージシャンとセッションを重ね、スティーヴ・グロスマン(Ts)とレコーディング。帰国後、高橋知己、寺下誠、佐藤達哉らと活動。その後グロスマン初め、レナート・ダイエッロ(Ts),アレン・ファーナム(P),デイモン・ブラウン(Tp)など主に海外のミュージシャンと共に日本全国、アメリカ、ヨーロッパ全土を精力的に長期ツアー、レコーディングなど行なった。ドラミングはエルヴィン独特のダイナミズム、他のパートをスイングさせるバランス感覚を重視しメロディサウンドを大切にしたドラムの役割を模索している。

サックス