─追悼・金昌国 先生─

音楽界に様々な道筋を開いたフルーティスト

またしても悲しいニュースがフルート界を駆け巡った。
東京藝術大学で長く教授を務め、優秀なフルーティストを育て、1986年、「アンサンブルofトウキョウ」を創設。さらに神戸国際フルートコンクールの設立に深く関わり、その後も長年にわたって中心的存在だった金昌国氏が7月15日逝去された。享年80。
ここでは、弟子たちの追悼の言葉ともに、ザ・フルート55号(2002年発刊)に掲載した「演奏を支えた1本のフルート」の記事を再構成してお届けする。
改めて金昌国氏のご冥福を祈り、その功績を讃え、後世に語り続けたい。

きんしょうこく
神戸市中央区で育ち、神戸高校でフルートを始めた。
東京藝術大学院を修了。日本音楽コンクール1位、ジュネーブ国際音楽コンクール2位(1位なし)に輝いた。
ドイツ・ハノーバー州立歌劇場管弦楽団首席奏者も務め、東京藝術大学では多くの後進を育成した。
1985年から4年ごとに開かれ、長年審査委員長を務めた神戸国際フルートコンクールでは、ジャン=ピエール・ランパル氏ら巨匠を審査員に迎え、無名だったベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席奏者のエマニュエル・パユ氏ら名手を輩出。世界三大コンクールの一つに称されるまでに国際的評価を高めた。1986年、「アンサンブルofトウキョウ」を創設。その演奏は演奏者、指揮者としても高い評価を得ている。2001年度に神戸市文化賞、15年度に兵庫県文化賞。

2002年に開催された「デビュー35周年 金昌国とその仲間達」
 

師からの教えと研究~金昌国先生の功績  竹澤栄祐

東京藝術大学、同大学院修士課程、博士後期課程を修了。管楽器専攻としては日本で初めて博士号を授与される。博士論文を引き継ぎ、アジア・フルート連盟の会報では13年間「J.S.バッハのフルート」を連載した。現在、アジア・フルート連盟東京常任理事、東京藝術大学講師、埼玉大学教育学部芸術講座音楽分野教授。2010年3月に開催された「金昌国 退任記念演奏会」では実行委員長を務めた。本年10月16日(日)14時から銀座・王子ホールでの10回目のリサイタルを開催予定。
 

「練習するな!」
J.S.バッハの『ヨハネ受難曲』の本番当日のリハーサル後、楽屋で本番を待つ間に言われた、金先生からの戒めの言葉です。その日私は、先生の隣で2番フルートを演奏することを任されていて、本番前に練習したかったのですが、先生曰く「本番前に練習すると疲れる」から「練習するな」というわけです。当の先生は、楽屋では横になって寝るのが常でした。しかし、本番ではリハーサルとはまったく違う名演奏をなさっていて、隣で吹く私は、普段のレッスンでは学べない、そして口では言い表せない貴重な「教え」を受けました。
また、今でも心に残る先生のリサイタルがあります。それは、上野学園のエオリアンホールで開催されたJ.S.バッハのフルート・ソナタ全曲演奏会です。その演奏会では、チェンバロを小林道夫先生がお弾きになり、そして満員の聴衆の中には、金先生の師であるハンス・ペーター・シュミッツ先生がいらっしゃいました。薄い管厚からか、まるで刀のように少ししなったヨハネス・ハンミッヒのゴールドの楽器から発せられた一音一音は、まるで空を舞う竜のごとく会場中を飛び回っていると感じられました。まさに「魂の込められた音」を体感したのです。演奏会後に先生がポツリと、「ちょっと緊張した」とおっしゃられていたのを覚えています(ちなみに、長年のお付き合いから、先生の「ちょっと」は、「すごく」と訳される、と私は思っています)。
ある日、大学のレッスンを終えた後、二人で上野公園を帰っている時に、先生が「俺に何か言ってくれる人は、シュミッツ先生と(インゴ・)ゴリツキーと小林先生の3人しかいなくなった」と嘆いていらっしゃいましたが、そのうちのお二人の前での緊張感のある演奏だったからこその、気迫のこもった演奏だったのでしょう。今でもあの時の経験は、私にとって宝の「教え」です。
大学院生のころ、レッスンしていただくためにレッスン室に入ると、その日は珍しく(!)前の学生のレッスンが終わっていて、先生が椅子に座って「ソーレーレッレ」と、モーツァルトのト長調協奏曲の冒頭を倍以上遅いテンポで練習なさっていました。私の顔を見ると、「明日この曲の本番やねん」とおっしゃっていました。この曲は何度もレッスンしていただきましたが、そのたびに新たな指示を受けていたため、冒頭の3小節だけで10くらいのメモ書きが私の楽譜には残されています。普段から倍以上遅いテンポで、綿密に練習なさっていたからこその細かい指示だったのです。このように先生のレッスンでは、この音に何個ヴィブラート(時には「2個半!」とか)をかけるとか、この音に入るタイミングを遅らせて「待つ」であるとか、具体的な演奏法の指示が飛ぶのが常でした。また、同じ音型やフレーズに毎回変化を付けて演奏することも徹底的に仕込まれました。もちろん、シュミッツ先生から受け継がれてきた、作曲家と曲が生まれた背景を知りつつ、楽譜に「忠実に」演奏するという「教え」も生徒たちには叩き込まれました。まさに音楽に「厳しい」指導だったのです。
アジア・フルート連盟を立ち上げて、会報での執筆や講演をする場合、先生の研究の中心はいつもモーツァルトでした(それに対して、私はバッハ担当でした)。特に、トリルについてはこだわり続けていらして、モーツァルトの時代、すべてのトリルを上方隣接音から始めるのは間違っている、というのが、先生の終始一貫した主張でした。
また、モーツァルトのフルート協奏曲については、どうしても校訂者の意向が反映されてしまう原典版に対して「原版」と称して、2つの協奏曲の最も古い資料、ト長調の場合は1803年出版のブライトコップフ社の初版、ニ長調の場合は18世紀後半のプロのコピイストによる筆写譜、を、ともに不完全で音の間違いがあることをも含めて、そのまま載せる楽譜を先生の注釈も付けて出版なさいました。このように先生が、モーツァルトについて研究した成果を、先生ご自身が世界中で開催される国際コンクールの審査員をなさったときに、他の審査員のフルート奏者にお話したそうです。その結果、実際にある原典版では、金先生のご意見が反映された注釈や点線でのタイが付加されています。
このように、アジア・フルート連盟での活動を含めて、ご自身の研究の成果を広め、教育し、世界中の演奏家に大きな影響を与えました。それこそが、先生の偉大な功績です。
先生のご冥福を心よりお祈りいたします。

シュミッツ先生とともに
宮田亮平先生(元文化庁長官、元東京藝術大学学長)とともに
2人の師(左は播博先生)とともに
 

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神田寛明│高木綾子│朴美香
演奏を支えた一本のフルート—THE FLUTE55号(2002年)より—

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