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THE FLUTE vol.185
【第18回】新・国産フルート物語 低音フルートの可能性を求めて —コタトフルート
本誌THE FLUTE vol.166より連載がはじまった「新・国産フルート物語」。THE FLUTE CLUB会員限定でオンラインでもご紹介します。
アルソ出版社内にたった1冊だけ残る、貴重な1冊
1998年に、アルソ出版より刊行した書籍『国産フルート物語』。
日本のフルートメーカーを丹念に取材し、トップメーカーから個人経営の工房まで、その黎明期から現代に至るまでの歴史と道のりをつぶさに書き連ねた貴重な記録だ。
当時から20年以上が経ち、令和の時代を迎えた今、それらのメーカーや工房なども代替わりなどが進み、様変わりしてきている現状がある。そんな現在の姿をあらためて伝えるべく、新たに取材を加えながら「新・国産フルート物語」としてここに綴ってきた。
今回は、特殊管フルートで世界的な知名度を持つコタトフルートを作り上げた、古田土勝市氏へのインタビューをお送りする。古田土氏と福島哲夫氏が築いてきた唯一無二のフルート作りと、フルートアンサンブルとともにはばたいたバスフルート製作の道程をたどった前回。工房を訪ね、現在の姿をあらためて取材した。
第18回:低音フルートの可能性を求めて —コタトフルート
自然に身に付いていた、ものづくりのセンス
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古田土さんはムラマツフルートに入社してフルートづくりを始めたそうですが、入社のきっかけは何だったのですか?
古田土
入社以前の話ですが、高校3年生の時に、音楽と担任の先生から宇都宮に新しい音楽の短大ができたから、行ってみたらどうかと言われたんですね(註:宇都宮短期大学。開学当時は音楽の単科短大だった)。吹奏楽部でフルートをやっていましたが、高校から始めただけだったし、急いでピアノも習ったりして受験に間に合わせました。
無事短大には入ったものの、2年間勉強したからといってその後音楽で食べていけるとは思えないし、どうしようか……と思っていたある日、不注意からフルートの足部管を落としてしまったんです。かなりひどい壊れ方をして、致命傷でした。しかも運悪く、ちょうど試験が目前に迫っていて。これはもう自分で直して当座をしのぐしかないと、キィポストが倒れていたり、芯金が曲がっていたり、タンポが破れていたりするのを何とか自分で修繕しました。そのときに、そうか、こういうことを仕事としてやっている人がいるんだ、ということを初めて意識したんですよね。昔からものを作るのが好きだったので、ピンと来た。使っていた楽器がムラマツだったこともあり、ムラマツに入ってこういう仕事をしていきたいと思うようになりました。
無事短大には入ったものの、2年間勉強したからといってその後音楽で食べていけるとは思えないし、どうしようか……と思っていたある日、不注意からフルートの足部管を落としてしまったんです。かなりひどい壊れ方をして、致命傷でした。しかも運悪く、ちょうど試験が目前に迫っていて。これはもう自分で直して当座をしのぐしかないと、キィポストが倒れていたり、芯金が曲がっていたり、タンポが破れていたりするのを何とか自分で修繕しました。そのときに、そうか、こういうことを仕事としてやっている人がいるんだ、ということを初めて意識したんですよね。昔からものを作るのが好きだったので、ピンと来た。使っていた楽器がムラマツだったこともあり、ムラマツに入ってこういう仕事をしていきたいと思うようになりました。
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当時から、やはりムラマツブランドがメジャーな存在だったのですね。
古田土
そうですね。僕は1969年に20歳で入社したのですが、その前年の68年にムラマツにいた多くの人が独立したり外に出ていったりして……三響フルートとかパールフルートなどがちょうど設立されていた頃でした。タイミング的には熟練した人たちがまとめて抜けてしまったせいで、ムラマツの内部はだいぶ混乱していました。もっとも当時は、そんなことはまったくわかりませんでしたが。でもそのおかげで、入社早々からいろんな現場を経験することができました。
僕が4月に入社して、同じ年の8月に福島(哲夫氏)が入社してきました。当時からよく気が合って、仕事以外でも一緒に山に行ったり、アンサンブルをしたりしていましたね。
僕が4月に入社して、同じ年の8月に福島(哲夫氏)が入社してきました。当時からよく気が合って、仕事以外でも一緒に山に行ったり、アンサンブルをしたりしていましたね。
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コタトフルート・古田土勝市氏