コンサート・レポート

Concert Report ー B→C 亀居優斗クラリネットリサイタル

B→C亀居優斗クラリネットリサイタル

日時:2023年10月3日 19:00開演
場所:東京オペラシティ リサイタルホール
出演:亀居優斗(CL)
   小澤佳永(PF)
曲目:J.S.バッハ/大橋晃一編曲『前奏曲とフーガ「聖アン」変ホ長調 BWV552』
   伊藤康英『クラリネット・ソナタ』
   坂田直樹『カンデラ』
   J.ヴィトマン『3つの影の踊り』
   葛西竜之介『幻想曲《泡》――クラリネットとピアノのための』
  (亀居優斗委嘱作品、世界初演)
   M.レーガー『クラリネット・ソナタ第1番 変イ長調 op.49-1』
(C)大窪道治/写真提供:東京オペラシティ文化財団

東京オペラシティ文化財団が主催する「B→C」は、若手演奏家の登竜門と認識されて久しい誉れ高きリサイタルシリーズであり、かつてはあのクラリネット界のスーパースター・赤坂達三氏も立ったというひのき舞台である。2023年10月、東京オペラシティ リサイタルホールに顕現するこの天王山に、亀居優斗氏が堂々登場した。
亀居氏は東京佼成ウインドオーケストラを経て神奈川フィルハーモニー管弦楽団の首席クラリネット奏者を務め、さらに現在はフランス留学の真っ最中と、いま最注目の若手実力派奏者である。実はこの「B→C」は、神奈川フィルのソロ・コンサートマスターである“組長”石田泰尚氏も経験している。先達らが築いてきた伝統がそびえるこのステージにおいて、亀居氏がどのような演奏を見せてくれるのか。高まる緊張感を受け止める荘厳な設えのホールは、神秘的な静けさを湛えていた。
当シリーズのタイトル、“B”とはすなわち“バッハ”で、“C”とは“コンテンポラリー”を指す。つまり、J.S.バッハ作品とコンテンポラリー=現代作品を軸に、演奏家たちが自由な発想でプログラムを組むことがその特徴である。今回の亀居氏の選曲を見ると分かりやすいだろうか。一曲目のバッハ『前奏曲とフーガ「聖アン」変ホ長調 BWV552』は1739年の作品、典型的バロック音楽である。その次に披露した伊藤康英『クラリネット・ソナタ』は2021年の作品であり、実に280年以上も年代が飛んでいる。この「B→C」は、両極端な性格を持つ作品たちをいかにして一つのコンサートへ落とし込むかという、その手腕も見どころである。

さて、名刺代わりの一曲目は先述したバッハの『前奏曲とフーガ「聖アン」』である。元になった曲はオルガン曲集『クラヴィーア練習曲集第3部』。ここから最初の前奏曲と最後のフーガのみを抜粋し独立させてできたのが本曲である。神へ捧げるための厳かで心地よい和声進行、優しくなでるようなメロディラインはまるで賛美歌のような雰囲気をまとう。亀居氏の音楽は、羽のように軽い筆致で紡がれる。その抜群のセンス、音楽性の高さは、氏のたゆみない努力と向上心が作り出したことは間違いないであろう。このリサイタルを生で見られたことは、まさに盲亀の浮木だ。

(C)大窪道治

ついで演奏された曲は、伊藤康英『クラリネット・ソナタ』。特に吹奏楽作家として人気を博している伊藤康英氏だが、ほかにも多くの管楽器ソナタを書いており、この曲もその一つである。伝統的バロックの教会ソナタを踏襲した緩・急・緩・急の4楽章構成であり、現代に生まれた楽曲でありながらバッハの時代のエッセンスを持つ本曲は、まさに「B→C」の舞台にうってつけだ。B→Cは、演奏もさることながらその選曲の思考も問われる。その点において、亀居氏の深い音楽的センスが見受けられる選曲だ。
3曲目『カンデラ』は、無伴奏のクラリネット独奏曲。「カンデラ(Candela)」とは光度の単位を指す。音域による音色の変化を明暗の度合いと捉え、また「キャンドル」と語源を同じくする題名を与えたことから火にまつわるイメージも投影されている……とは、作曲者である坂田直樹氏の言。これらから描き出される風景を、クラリネットの演奏能力をフル活用しているのが本曲だ。コンクールもかくやという超絶技巧が山と押し寄せる本曲の演奏難易度は極めて高い。その演奏は表情豊かで、宵闇をぼうと照らす篝火にも、辺りに無遠慮な明かりをもたらす大火にも感じられた。

(C)大窪道治

さて、休憩を挟んで後半……なのだがなにやら舞台の様子が違う。まず、譜面台がいくつも用意されている。舞台上手側、下手側、中央付近に計三箇所。下手側には椅子も一脚用意されている。ひときわ目を引くものは、舞台の真ん中に鎮座するマイクと、その両脇に置かれた巨大なスピーカー。はて、なぜだろうか……。疑問が氷解するのは、次の曲が始まったあとであった。
その曲は後半一曲目、イェルク・ヴィトマン『3つの影の踊り』だ。このページを読んでいる方でヴィトマンの名を知らぬものはいないであろう。クラリネット奏者、作曲家、指揮者。そのすべてにおいて世界的な名声を獲得した、現代の巨人である。本曲は無伴奏のクラリネット独奏であり、「エコーの踊り」「水(中)の踊り」「アフリカの踊り」の3曲で構成されている。ヴィトマン自身が語ったコンセプトは「従来とはまったく違う形で、クラリネットという楽器を再考すること」「若いクラリネット奏者たちに、貪欲に楽しく慣れ親しんでもらうようにすること」。その意味は、演奏を聴く……否、“観る”ことで判る。
まず、三箇所に設置された譜面台。これは、各曲それぞれのために用意されたものだ。真ん中のマイクとスピーカーは、第2曲「水(中)の踊り」と第3曲「アフリカの踊り」で使われた。発する音に極端なエコーをかけることで、あたかも水中にいるかのような音響を再現したり、キィ・ノイズをより強調するためにリバーヴをかけたり……楽器のみに頼らない音楽表現を追求する姿勢は「コンテンポラリー」の言葉を載せるにふさわしい。そして椅子であるが、これはもちろん座るため、つまり座奏するためである。実際に第3曲「アフリカの踊り」は座奏で行なわれた。キィ・ノイズで鳴らされるファンク・ビートを中心に、時折入る悲鳴とも喘ぎともつかない吹奏音、そして最後には奏者自身の声による始原の大地に響き渡る魂の雄叫びが衝撃とともに駆け抜け、曲は幕を下ろす。『カンデラ』にさらに輪をかけて用いられる特殊奏法や難解な超絶技巧の嵐、そして最後の絶叫……この難曲を選び、そしてすべてを全力で演奏しきった亀居氏には最大級の賛辞と「ブラボー」を送りたい。

(C)大窪道治
(C)大窪道治

続く曲は、今回が世界初演となる委嘱作品『幻想曲《泡》――クラリネットとピアノのための』。作曲者の葛西竜之介氏は1995年生まれ、すなわち亀居氏とは同期の桜である。
曲は序奏、躍動、悲しき歌、畝り、この4つの部分から成り立つ、と作曲者自身が語っている。泡沫に消ゆ、幻想的な旋律線は非常に美しく、そして聴くものの記憶を想起する、懐かしい印象を放っている。物憂げな演奏が静かに胸を打つ、快演であった。

本リサイタルを締めくくるメインは、レーガー作曲『クラリネット・ソナタ第1番 変イ長調 op.49-1』。ポリフォニックな拡がりとロマン派に連なる躍動的なメロディラインが特徴的な大曲である。伝統を革新的技法で串刺しにしたようなユニークな曲想は、このB→Cの掉尾を飾るにこの上ない選曲だ。ここに来てその日一番の切れ味を発揮するクラリネットは生き生きと躍動し、亀居優斗の名を打ち付けるに充分なインパクトを残していった。

(C)大窪道治

アンコールとして、盟友・三界達義氏の父、三界秀実氏が作曲した『ソナタ クラリネットとピアノのための』を演奏。クラリネットとピアノによる極上のチルアウトでもって、激動のリサイタルは穏やかに幕を下ろした。


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