フルート記事 【第1回】ふたたび、「あふれる光と愛の泉」
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【連載】THE FLUTE ONLINE vol.168掲載

【第1回】ふたたび、「あふれる光と愛の泉」

ジャン・ピエールとその父ジョゼフ、ランパル親子に学び、オーケストラ奏者を歴任、その後パリ音楽院教授を務め、日本のフルートシーンに大きな影響と変化をもたらしたフルーティスト、アラン・マリオン氏。1998年、59歳で急逝してから20年が経った。当時、氏の来日の度に通訳を務めた齊藤佐智江さんは、氏へのインタビューと思い出を綴った「あふれる光と愛の泉」(アルソ出版刊)を翌1999年に上梓した。パリ留学時代の思いがけない氏との出会い、そののちマリオン氏の通訳を務めることになったこと、傍らで聞いた氏のユーモア、珠玉の言葉、感動的ともいえるエピソードの数々……。それをいつか本にまとめたいと1998年5月に始めたインタビューは、期せずして、氏がパリ音楽院の教授に指名されたところで終わってしまった。

2018年10月にパリとマルセイユで行われたマリオン氏を追悼するイベントには世界中で活躍する多くの生徒たちが集まり、フランスのフルート協会誌のマリオン氏20周忌記念号には、その時代を氏とともに生きた人々の「証言」が多く掲載された。

今ふたたび、「あふれる光と愛の泉」をもとに、マリオン氏と共に音楽を人生を享受した様々な音楽家、そして強い意志を持って音楽家の人生を生き抜いたマリオン氏をここに紹介したい。

 

齊藤佐智江
武蔵野音楽大学卒業後、ベルサイユ音楽院とパリ・エコール・ノルマル音楽院にて室内楽とフルートを学ぶ。マリオン・マスタークラスIN JAPANをきっかけにマスタークラス、インタビューでの通訳、翻訳を始める。「ブーケ・デ・トン」として室内楽の活動を続けている。黒田育子、野口龍、故齋藤賀雄、播博、クリスチャン・ラルデ、ジャック・カスタニエ、イダ・リベラの各氏に師事。現在、東京藝術大学グローバルサポートセンター特任准教授。

 

~アラン・マリオンをめぐるフレンチフルートの系譜~

Alain Marion <歌うフルート>

以下は、マリオン氏をよく知る当時フランスのフルート協会会長(現J.P.ランパル協会会長)ドゥニ・ヴェルースト氏が、急逝の折に氏の人生を書き下ろしたもの。ここに引用し、まずは、マリオン氏の生涯と時代背景を紹介したい。

1ぺーじ目に

1938年12月25日にアロー(Allauch)で生まれたアラン・マリオンは、ひょんなことからマルセイユ音楽院で教えていたジョセフ・ランパル(ジャン・ピエール・ランパルの父)のフルートのクラスに入学する。ジャン・ピエール・ランパルが言うように、父ジョゼフは自ら生徒の“市場開拓”をしていたのだ。クラスの生徒数を増やすことでほんの少しでも給料を上げてもらおうと、そしてフルートだけ教えてソルフェージュを教えなくていいように、生徒を探していたのだ……。
その少年は14歳の時にマルセイユ音楽院でプルミエ・プリを得、1955年には音楽の王国コンクールに入賞するが、エンジニアの学校に入学する。彼はジャン・ピエール・ランパルの個人レッスンを受けるために、度々パリに上京するようになる。彼は才能にあふれ、やる気に満ち、そして音楽の道へと導かれてゆく。こうしてパリ音楽院の受験を志す。ランパルは1956年10月にマリオンの母へ「アランは流星のごとくパリ音楽院に受かるに違いない」と書き送る。しかしながら不思議なことに入学は許されなかった。そんなことはどうでもよい!彼は入学するのだと決め、生活を続ける。

ジャン・ピエール・ランパルと
ジャン・ピエール・ランパルと

しかしながら、とにかく生きていく糧を見つけなくてはならなかった。1958年、兵役(訳注:1997年に完全に完了している)の召集に応じ、1960年に終えるとパリで働き始めた。マクサンス・ラリュー、レイモン・グイオーらは当時、彼に仕事を世話した。するとたちまちオーケストラの名エキストラとして名を馳せるようになり、さらにさまざまな仕事を得られるようになり、たくさんの経験を積み、とうとうソリストとしても活躍するようになったのだ。

マクサンス・ラリューと
マクサンス・ラリューと

彼のオーケストラ奏者としてのキャリアは本当に華々しいものであった。1964年ラジオ・フランスの室内管弦楽団の首席となり、次いで1967年にシャルル・ミュンシュのもとでパリ管弦楽団が創設されると同時にそのポストも加えられる。1971年にはフランス国立放送管弦楽団の首席奏者のオーディションに合格し……。ジャン・マルティノン、レオナルド・バーンスタインのもとで5年、そしてピエール・ブーレーズの招きに応じ、創設されたばかりのアンサンブル・アンテルコントンポランの首席奏者となる。
1973年にはリュエイ・マルメゾン音楽院教授の職を得たが、翌年にはジャン・ピエール・ランパルにパリ音楽院でのアシスタント(助教授)に任命される。1977年、パリ音楽院のフルート科にもう一クラスが増設された折、コンクールを経て教授となり、1980年にアンサンブル・アンテルコントンポランから離職する。

そして、すでに多くの経験を持つソリストとしてのキャリアは、さらに広がりを見せる一方であった。様々な国で著名な音楽家たちとフランスらしいフルートで多くの録音をし、衝撃を与えた。

彼自身が言うように、「勇敢に自分の運を信じ、その運をつかむためには用意ができていなくてはいけなかった……。」成功はちゃんと約束されていた。アラン・マリオンの存在は努力、闘争、望み、情熱そして才能、という言葉に置き換えられるが――本来の現実的な言葉でいえば《そうなりたいと願う》ということだ。それは若いすべての人たち、各々の可能性を開拓しようと探求し、自分の芸術を明確に示そうとする人たちにとって、お手本ともいえるものである。おそらくそれが、フルートの範疇にとらわれず、教育においてもこのような成功を収めた理由であり、1963年以来、ニースの夏のアカデミーで彼に教わった、数々の輝かしい成功を収めている生徒たちからアマチュアまでが、これほどまでに常に彼に感謝を忘れず、友情を捧げていることも頷けるのである。

教育活動はアラン・マリオンの最後の20年間においては、最も主要な位置を占めていた。パリ高等音楽院の教授として、またニースでの講習会も続け、1985年から1993年においてはCIFMのディレクターも務める傍ら、世界中でマスタークラスを行なった。ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院、北京中央音楽院、韓国、イタリアなどには特に頻繁に行っていた。
そして毎年6月にはカナダのドメーヌ・フォルジェに赴き、日本には年に何度も出かけるようになる。日本では1980年に初リサイタルを行なって以来、いつのときも温かな歓迎を受け、大きな成功を収めていた。
そしてまさに、彼の生涯を通してキャリアを一緒に築いた三響フルート、プリマ楽器とともに、さまざまな共同企画を行なっていったのだ。日本の製作者たちとアラン・マリオンとの関係は、ほかには見られないほどの強い信頼関係で結ばれていた。細心の注意を払い、より完全(な楽器)をめざし、彼は楽器に対して感想を述べては批評し、そして提案を続けた……。

1980年、初来日公演時のフライヤー
1980年、初来日公演時のフライヤー

ジョゼフ・ランパルから学んだ《人生の学校》は、そののち彼を様々な道へと導いた。
常に挑戦を続ける人生を生き、彼は自分の教え子たちや数々のディスクを通して、多くの友情の思い出、心通い合う音楽を残してくれた。幸福のもとに築かれた芸術、それが彼をもっともよく表しているものである。

1998年9月
Denis Verroust ドゥニ・ヴェルースト
(現ジャン・ピエール・ランパル協会会長)

 

(次のページへ続く)

 

―La traversière magazine No.126
Troisième trimestre 2018より抜粋―

フルーティスト アラン・マリオン あふれる光と愛の泉より

アラン・マリオン
(アルソ出版 1999年刊)
アラン・マリオン
(アルソ出版 1999年刊)

スポーツと音楽を愛するやんちゃなマリオン氏の少年時代。ピアノとヴァイオリンを経てどのようにしてフルートにめぐりあったのか……。それは人々の心に戦争の暗い影と爪あとが強く残る時代背景と、師ジョゼフ・ランパルが母に告げた一言からだった。 (以下、「あふれる光と愛の泉」より再編)

(次のページに続く)

 
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