【連載】THE FLUTE ONLINE vol.175掲載

【第7回】ふたたび、「あふれる光と愛の泉」

時代は違えども 、期せずして、二人のパリ音楽院教授アラン・マリオンとソフィー・シェリエはアンサンブル・アンテルコンタンポランに所属し、パリ音楽院教授の重責をそれぞれ担うことになる。マリオンの人生のさまざまな選択、決して自分では語らなかった苦渋の決断があった。マリオン夫人のクリスチャンヌは隣でその苦しみ、悲しみをともにわかちあい、そして喜びを共に享受してきたのだった。(以下、「あふれる光と愛の泉」より再編)

クリスチャンヌ・マリオン もうひとつのまなざし(前号より続き)

インタビュア:ベルナール・デュプレックス(フルート奏者、サクソフォーン奏者)

指揮者たち

アランはシャルル・ミュンシュ、カラヤン、バーンスタインをとても気に入っていましたが、彼が心の底から敬愛していたのは、セルジュ・チェリビダッケでした。『ダフニスとクロエ』、ブラームスの4番など、本当に素晴らしい時間を共有していましたね。もし、チェリビダッケがあのままフランス国立オーケストラにいたら、アランはオケをやめなかったかもしれません……。私たちは、チェリビダッケと個人的にも心から親しいお付き合いをさせてもらいました。よく家に食事に来てくれました。彼は相手を賢くしてくれる貴重な人でした。なんだか、いつもいつも私たちの話を聞いてくれているような気がしましたね。これは誰も知らないことなのですが……アランはその頃、指揮法をとても学びたがっていたんです! 結構真面目に考えていたんですよ! でも、オーケストラ・プレイヤーをしてみると、それをすることがすごく難しそうに思えたようで、やめたようです。

アンサンブル・アンテルコンタンポラン

アランのオケ時代の一番いい思い出といえば、アンサンブル・アンテルコンタンポランのことのようでした。アランはこのアンサンブルが創立されるにあたり、最初に連絡を受けたソリストたちの一人でした。ピエール・ブーレーズとアランはずっと前からの友人でしたが、それでもオーディションを受けなくてはなりませんでした。
取るのが非常に難しい1年の休暇をラジオ局に申請してみましたが、受け入れてもらえなかったので、フランス国立オーケストラを辞めざるを得ませんでした。そのことをアランはとても悲しんでいました。なぜなら、オケの多くのメンバーから彼は ”裏切りもの” とみなされ、もう家族の一員でないのだから出て行け、とでも言われているように感じたからです。
アランの国立オケでの最後の演奏会を聴きに行きましたが、とても耐えられないひと時でした。幾人かの友人を除いては、さようならさえ言わないのです……アランは帰りの車の中で、子どものようにずっと泣いてばかりいました。

ブーレーズは多くの人が考えているのとは違って、とても温かな人でした。1978年、ジャン・ピエール・ランパルとブーレーズがうちに来て食事をしたときのことはいまだに忘れられません。アランとブーレーズはお互いをよく理解していましたし、本当に素晴らしい時を共有していました……。
アンサンブル・アンテルコンタンポランはフランスだけでなく外国でもずいぶんと多く演奏会をしていました。アランはフランスの隅々で小さなグループで演奏した、素敵なコンサートシリーズの素晴らしい思い出をとても大切にしていました。それは地方分権組織の案で行なわれていたものでしたが、ジェラール・コーセ(Va)やマリー・クレール・ジャメ(Hp)が一緒でした。彼らは体育館のようなところや格納庫などで演奏したり……それも現代音楽とはおよそ縁のなさそうな聴衆の前で演奏していましたね!
アランはそれらのレパートリーをさらうのをとても楽しんでいました。特にベルク、ウェーベルンなど、またブーレーズのエクスプロザント・フィックス L'explosante fixe をそれこそ1小節ずつ……本当に心から楽しんで……それは絶え間ない発見の連続だったし、とても身になるものでした。ですから1年たっても私の耳にはまだそれが残っていましたね。フルートがやっと仕上がった時にはコンピューターがうまく稼働せず、結局彼はその曲を初演する前にアンサンブル・アンテルコンタンポランを辞めてしまいました。

パリ音楽院の教授に任命されてからは、アンサンブル・アンテルコンタンポランに費やす十分な時間が取れないと思ったようです。それに彼は兼任することには反対でしたから! 彼は自分自身の考えにはかなり従順でしたね。
ブーレーズにそのことを伝えると、ブーレーズはアランの生徒で後継者となったラリー・ボールガールへの引継ぎのために、少しでいいから残ってほしいと言っていました。
それ以来、アランはオケの中で吹くことはなくなって、それをとても残念に思っていたようですし、ノスタルジーも強く感じていました!
それでも彼はそれぞれのステップで自分がしてきたことを、とことん味わい尽くし、究めたと言えるのではないでしょうか。彼は何か1本のラインのようなものに沿って、そこから外れることなく進んでいたような気がします。

マルセル・モイーズとの出会い

あの頃、モイーズはアメリカ合衆国にいました。アランはモイーズと手紙でやり取りをして親しくなりました。メッツのモイーズの生徒だったシャルル・ダニノのところへ来る際に、彼はアランに会いたいと言ってきたのです。こうして私たちはメッツまではるばる出かけていくことにしました。長い道のりの車中「もしモイーズがランパル親子のことを一言でも(悪く)言ってみろ! 俺はすぐ帰るからな!」と何度言ったことでしょう。でも実際には、この出会いは素晴らしいものでした。彼らは2日間、フルートの話ばかりしていました! 当然、私はそれをすべてひとり占めしていたわけです……。モイーズという人はとても意地の悪い人でしたが、とても面白い人でした。パリにもどり、アランは彼をパリ音楽院に招待するためにあらゆることをしましたね。家にはリリー・ラスキーヌと同じときにお招きしました。彼らの再会に立ち会わせてもらえたのはとても感動的なことうでした。

こうして77年5月、パリ音楽院ですばらしい一連のマスタークラスが行なわれたのです。彼が学長を、"ギャラリー・ラファイエット(デパート)" の売場主任に比較したといって、さまざまに評価されたのはこの時のことです。(注:25年ぶりにフランスを訪れたモイーズは、このマスタークラスの時にコンセルヴァトワールへの不平をぶつけたのだという。この言葉を発した時は何人かに大受けしたが、大変顰蹙を買ったのだそうだ。)


(次のページへ続く)
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