フルート記事
ミヒ・キム│THE FLUTE vol.197 Cover Story

フルートを吹いて、自分自身が幸せになること

表紙に初登場してくれたミヒ・キムさん。アラン・マリオンにその才能を見出され、15歳にしてパリに留学したフルーティストだ。とても柔らかい雰囲気を持つ女性だが、インタビューを通じて、音楽またフルートに対しての強い信念を感じさせてくれた。
“素晴らしい音”とは“感動”で、決して“良い音”のことではないと語るミヒさん。フルートを中心に彼女が今考えていることを訊いた。
インタビュアー・翻訳:金井康子/写真:河野英喜/取材協力:ミヤザワフルート製造株式会社

15歳でA.マリオンの導きでフランスに留学

今回はマルティナ・シルベスターさんとのコンサートで来日されました。マルティナさんとの共演の感想をお聞かせください。
ミヒ・キム
(以下M)
とても良い経験でした。集中力のある観客が多い日本で演奏するのは、いつでも大きな喜びです。マルティナは私の生徒で、20年来の既知の仲です。プロフルーティストに育った昔の生徒と演奏できることも大きな喜びでした。才能ある若い人たちと舞台をシェアできること、それは話をするだけでなく、行動を一緒に起こすことに意味があると思えます。
前回ザ・フルートに登場いただいたのは、2007年の91号でずいぶん前ですので、改めてフルートを始め、アラン・マリオン氏に才能を見出されたことについてお話ください。
M
私がフルートを始めたのは9歳でした。フルートを1年間学んだころ、私の先生が「マリオン氏のマスタークラスを受けないか?」と聞いてくれました。それで10歳のとき、モーツァルトの『フルートコンチェルト ニ長調』をマスタークラスで吹きました。
当時の私はまったくもって赤ちゃんだったので、マリオン氏から音階をダブルタンギングで吹くように言われた際も、「まだやったことがありません」と答えました(笑)。
マリオン氏から14歳になったらパリに来るように言われたわけです。
その若さでヨーロッパに行くことに迷いはありませんでしたか? そのときご両親はどのような意見でしたか?
M
私も両親もまったく心配していませんでした。父は技術士で、1950年代に16歳で勉学のためにドイツに留学していました。父は、自分が1950年代に16歳で渡欧できたのだから、娘が1980年代に15歳で渡欧することは問題ないだろうと確信していたのです。唯一父が心配したのは、学業を捨てて音楽の道に進むことでした。私は学校の成績がとても良かったので。留学することには賛成してくれた両親でしたが、フルートで留学することには賛成してはいませんでした。

次ページにインタビュー続く
・アジア圏出身者として初めてフルート教師の証書を取得
・幸せでいられればパワーが湧く
・雑味のない音質を心がけてppの練習をすること
・心のこもった歌を音に込めること。そして人と異なる個性を持つこと

 
Profile
クリスティーナ・ヴァツロヴァ博士
ミヒ・キム
Mihi Kim
韓国・ソウル出身。10歳の頃よりフルートを始める。韓国で演奏ツアーを行なっていたアラン・マリオンによりその才能を見出され、15歳の時にヨーロッパで音楽の勉強をすることを決意。ムードン国立音楽院、パリ国立高等音楽院、ケルン音楽大学及びミュンヘン音楽大学に学び、学士、修士、第3課程修了(パリ国立高等音楽院)の学位を得る。1998年、第5回ジャン=ピエール・ランパル国際フルートコンクール(パリ)入賞。2000年、バイロイト国際コンクール入賞。パリ国立高等音楽院にて音楽教育を学び、2001年にヨーロッパ圏外出身者として初めてフルート教師の証書を授与される。フランスでは200を超える演奏会に出演した他、フランス国外においても、ドイツ、韓国、台湾、セルビア、日本、スロベニア、イタリアにおいて演奏会に出演。マスタークラス等において後進の指導も積極的に行なっており、6ヶ国語を操り、海外経験豊富なその人柄は各国において好評を得ている。また、ラジオ・フランスや外国において度々その演奏が録音されている。現在パリ・エコール・ノルマル音楽院およびイッシー=レ=ムリノー音楽院(Issi-les-Moulineaux)において後進の指導にあたっている。
 
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