【連載】THE FLUTE ONLINE vol.179掲載

【第11回】ふたたび、「あふれる光と愛の泉」

ジャン・ピエールとその父ジョゼフ、ランパル親子に学び、オーケストラ奏者を歴任、その後パリ音楽院教授を務め、日本のフルートシーンに大きな影響と変化をもたらしたフルーティスト、アラン・マリオン氏。1998年、59歳で急逝してから20年が経った。当時、氏の来日の度に通訳を務めた齊藤佐智江さんは、氏へのインタビューと思い出を綴った「あふれる光と愛の泉」(アルソ出版刊)を翌1999年に上梓した。パリ留学時代の氏との出会い、マリオン氏の通訳を務めることになったこと、傍らで聞いた氏のユーモア、珠玉の言葉、感動的ともいえるエピソードの数々……。それをいつか本にまとめたいと1998年5月に始めたインタビューは、期せずして、氏がパリ音楽院の教授に指名されたところで終わってしまった。
今ふたたび、「あふれる光と愛の泉」をもとに、マリオン氏と共に音楽を人生を享受した様々な音楽家、そして強い意志を持って音楽家の人生を生き抜いたマリオン氏をここに紹介したい。

 

齊藤佐智江
武蔵野音楽大学卒業後、ベルサイユ音楽院とパリ・エコール・ノルマル音楽院にて室内楽とフルートを学ぶ。マリオン・マスタークラスIN JAPANをきっかけにマスタークラス、インタビューでの通訳、翻訳を始める。「ブーケ・デ・トン」として室内楽の活動を続けている。黒田育子、野口龍、故齋藤賀雄、播博、クリスチャン・ラルデ、ジャック・カスタニエ、イダ・リベラの各氏に師事。現在、東京藝術大学グローバルサポートセンター特任准教授。

~アラン・マリオンをめぐるフレンチフルートの系譜~
フレンチスクールの大使となって

1977年当時のマリオン1977年当時のマリオン

アラン・マリオンはフェルナン・デュフレンヌの後継者として、フランス国立管弦楽団の首席のポストを得、1971年10月から76年8月まで在籍した。
また、オーケストラを続けながら、1974年にはパリ音楽院のランパルのクラスのアシスタントに就任し、ニースの夏季アカデミーでも教えるようになり、1977年にはついにパリ音楽院の教授のポストを得る。またこのころ、三響フルートの発売元であるプリマ楽器、大橋幸雄会長(当時社長)との出会いによって、フレンチスクールの大使として日本をはじめ、世界を駆けめぐる日々が徐々に始まるのである。
(以下、「あふれる愛と光の泉」より再編)

ランパルのアシスタントに

パリ音楽院のランパルのアシスタントになった時、私はまだフランス国立管弦楽団にいた。1974年のことだった。これも本当に素晴らしい経験だった。なんせ、1度もパリ音楽院の生徒になったことのない私が、“大本山”入りしたんだから!たしかに私はアシスタントでしかなかったが、それでもパリ音楽院のさまざまな教育の形態や、一流の音楽家たちに触れることができた。私にとっては心の安らぐ、新鮮な時代だった。
当時、私は以前やっていたことを取り戻しつつあった。オーケストラでは指揮者によるものが大きく、私たちが好きなように何かをするという自由さはあまりなかった。いいかい、でも、だからこそ、面白いんだ。この交響楽オーケストラでの仕事は、私がフリーランスの時代に諦めていたかもしれない厳密さ、正確さのなかへ私を引き戻してくれた。しかしそこから先は、想像力を持ってその中でどのように自分を伸ばしていくのか、自分自身の自由を作り上げていくかを考えなくてはならなかった。しかし、そこにはとても“あきらかな”自由があった。
また、ジャン・ピエールのアシスタントでいるということで私はとても元気でいられた。多かれ少なかれ、私はどの方向にも向くことができた、と言えるだろう。精神的に解放されていたし、また生徒に対しては、私がイニシアチブをとることもまったく自由だったし、本当にそれは素晴らしいことだった。

ランパルとマリオンランパルとマリオン(1967年撮影)
ニース夏季アカデミーにてランパルの指揮のもとで ニース夏季アカデミーにて
 

(次のページへ続く)
・三響フルートとの出会い、ニースアカデミー
・大橋幸雄氏とマリオン氏の出会い
・パリ音楽院教授就任

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