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【第5回】ふたたび、「あふれる光と愛の泉」

【連載】THE FLUTE ONLINE vol.173掲載

ジャン・ピエールとその父ジョゼフ、ランパル親子に学び、オーケストラ奏者を歴任、その後パリ音楽院教授を務め、日本のフルートシーンに大きな影響と変化をもたらしたフルーティスト、アラン・マリオン氏。1998年、59歳で急逝してから20年が経った。当時、氏の来日の度に通訳を務めた齊藤佐智江さんは、氏へのインタビューと思い出を綴った「あふれる光と愛の泉」(アルソ出版刊)を翌1999年に上梓した。パリ留学時代の氏との出会い、マリオン氏の通訳を務めることになったこと、傍らで聞いた氏のユーモア、珠玉の言葉、感動的ともいえるエピソードの数々……。それをいつか本にまとめたいと1998年5月に始めたインタビューは、期せずして、氏がパリ音楽院の教授に指名されたところで終わってしまった。
今ふたたび、「あふれる光と愛の泉」をもとに、マリオン氏と共に音楽を人生を享受した様々な音楽家、そして強い意志を持って音楽家の人生を生き抜いたマリオン氏をここに紹介したい。

 

齊藤佐智江
武蔵野音楽大学卒業後、ベルサイユ音楽院とパリ・エコール・ノルマル音楽院にて室内楽とフルートを学ぶ。マリオン・マスタークラスIN JAPANをきっかけにマスタークラス、インタビューでの通訳、翻訳を始める。「ブーケ・デ・トン」として室内楽の活動を続けている。黒田育子、野口龍、故齋藤賀雄、播博、クリスチャン・ラルデ、ジャック・カスタニエ、イダ・リベラの各氏に師事。現在、東京藝術大学グローバルサポートセンター特任准教授。

~アラン・マリオンをめぐるフレンチフルートの系譜~

アラン・マリオンが去ってからの20年
~パリ国立高等音楽院のソフィー・シェリエのクラス《その2》~

アラン・マリオン

パリ国立高等音楽院のアラン・マリオン・クラスの“プルミエ(最初の)プルミエ・プリ”受賞者であり、恩師亡き後後継者として現在も教授を務めるソフィー・シェリエ。学生としてマリオンの傍にいた頃の思い出を辿り、この20年の変遷をめぐった前回からの続編をお送りする。

インタビュア:フローレンス・ベロン (フルーティスト、画家)

誰に対してもいつでもオープンに

あなたが教授に任命されて以来、教えていくうえで、新たな変化、発展させたこと、新しくなったことなどについてお話しいただけますか?
シェリエ
(以下S)
学生たちがクラスに何年いるかという点での変遷はありましたね。私が着任した時は3年でした。これはすでに、(自分の頃の)1年半とか2年とかに比べてずっといいと思いましたし、ちょうどいい妥協案なのではと感じました。4年経つと、むしろ心配になりましたし……5年になると、このまま持ちこたえるのは難しい、と思いました! でも結局、学士課程と修士課程が導入され、面白いことにうまく適応することができました。実は時間をかけることによって、結果的に(早く卒業させなくてはと思わなくてよくなり、卒業に対する)心配と言っていいほどのものはなくなり、むしろ学生たちは早く成長するように思います。
1年目は学生にゆっくり時間をかけて身を落ち着かせ、気楽に生活するよう、その場を大いに味わうよう言うことができます。2年か3年しかいられなかった時にあったような、張りつめた緊張感はもうありません。
学生時代のソフィー。隣がマリオン学生時代のソフィー。隣がマリオン
学生たちは3年たって学士を得るとクラスを離れることができるのですが、私のクラスではそれはめったにありません。学生たちには自由に課程を選択させています。なぜなら彼らには、自分たちの人生がありますし、こだわりや、望みをもつ若い人たちですから、例えばエラスムスで交換留学をしたいと言いだすのは素晴らしいことだと思っています。(エラスムスは)まったく新しいものですが、私以外の教師との出会いや他の国々の文化を発見することで、学生たちに豊かさをもたらしてくれます。私の側でも、このエラスムスの枠で同様に(世界中から)学生たちを受け入れています。またオーケストラ・アカデミーがありますね。私のクラスの学生たちで、ベルリン・フィルやアムステルダムのコンセルトヘボウのオーケストラ・アカデミーに入ったものもいますが、私たちが受けることのできる最高の教育だと思います!
今日、学生たちはすでに素晴らしいレヴェルでパリ国立高等音楽院に入学してきますが、私にとっては、2つの局面があります。テクニックのフォローアップとともに、指の練習、ソノリテ(音の豊かさ、繊細さ、フルート奏者の音色に望まれるすべて)の練習、自分の望む通り(強弱、低音、高音域、アーティキュレーション)自由自在に演奏するためのパネルを自分のものにするために試行錯誤して、自ら行なうこと。これは実際必要な、そしてこれからも存在し続けるであろうテクニックの問題ですが、それに並行して音楽的な面があります。それは私のものの見方であって、私のヴィジョンが必ずしも一番いいわけではありません!学生たちには自分の感じることを教えるけれど、私の感じ方は必ずしも彼らと同じとは限らないし、ですからその面では、彼らの自由にさせるようにしています。
それと、外へ向けてオープンでいようと心掛けています。何かしらプロジェクトをしたり、古楽器奏者たちとの出会いの場を作ったり、自分の所属するアンサンブル・アンテルコンタンポランのオケのリハーサルを聴いてもらったり、作曲家に来てもらったり、というようなことです……。
そういえば、ある時演劇を上演しましたが、ものすごくうまくいったのです。<フルート&フルート>というタイトルでした。シャトレ劇場で上演して、その後いろいろな町で再演しました。この取り組みは、実際クラスの連帯感を強めてくれたし、本当に素晴らしかった!私自身、発表会をあまりしないのはよくないと思っているのですが、一人ひとりがそれぞれ演奏するだけの、普通の発表会をしさえすればいいとは思っていません。ですから発表会をするとなれば、学生たちにそのコンサート(発表会)にきちんと関わって、一部分のプログラムを考えさせたり、室内楽を入れさせたりしています。そうするとさらに豊かな発表会になります。 そして、アランがしていたように、お互いに人の演奏を聴き合うようにしています。学生には少なくとも3、4時間は聴くようにと言っています。これは入れ替えなしの、内輪の発表会です。
ほかに、私のクラスはアランがそうだったように、誰に対してもいつでもオープンです。こうすると、学生たちはいつでも誰かしらが聴講していることで聴衆に囲まれ、それとなく仲間同士で自然な競争心が芽生えるとともに、関係がとても強固になるのです。ある学生がコンクールに優勝したり、またはオケのポストを得たりすると……近頃そういう学生はたくさんいますが、そのように優勝した友人たちに対して、仲間がとても喜んでいるのを見ると本当に嬉しくなります。みんな次は自分の番だ、と言っているように思えますし、確かにそのように回りまわっています。

自分自身の方向や道、時期を選ぶために

学生の成績については80年代と今を比較するとどうですか?
S
アランのことを話しましょう。私がプルミエ・プリを取って卒業したあと、アランに会いに行くと、面白いので話しますが、毎回アランは僕のかわいい娘、今年はすごいよ、学生たちはずば抜けている!と言っていました。レべルが上がっていたことがわかりますし、結局、自分自身でも同じことを言っていることに驚いてもいます! 何がそうさせているのか……競争心、若者、改革、教育課程が延長されたこと、のおかげなのか? いずれにしても、自分が学生だった頃はこんなレべルではなかったということは言えると思います。
私たちの時代はもっと競争やトンネルの中にいて、入学したら、プルミエ・プリをとって卒業しなくてはならず、受けたコンクールには受からなくてはいけませんでした。アランにはそうするように仕向けられましたが、アランを非難するつもりはありません。なぜなら、そのおかげで私はアンサンブル・アンテルコンタンポランに受かることができたのですから、私たちは本当に若い時にオケのオーディションを受けていました。私がリルのオケを受けたのは19歳だったし、オーケストラ・コロンヌとアンサンブル・アンテルコンタンポランに入団したのは20歳の時でした。
アランもそんなに押しつけたり、命令するようなことはなかったけれど、私はそれよりさらにしていないと思います。個人的にはコンクールが学生たちの自信を大きく左右することは怖いことだと思っています。もし若いうちにコンクールを受け始めると、失敗とも呼べないような《失敗》に突き当たるのは避けらません。例えば1次予選で残れなかったとすると、少しは傷つきますよね、当然ながら!1度、2度、5回、6回……若いうちに受け始める必要もないと思います。ですから1年目ははっきり、コンクールを受けるのは避けるよう言います。そうすると学生たちは、こんなコンクールがあるのだけど私がどう思うかを聞きたいと言って、会いにきます。こうなると、特殊な場合を除いて、私は反対することはないです。それこそ2年めに首尾よくなるとうまくいくことがたくさんあります。それはいいのか悪いのか? 私自身は、20才でオケに入ったのは早すぎる感じがします。それぞれの学生が コンクールに乗り出すために、まず自分自身の方向や道、時期を選んでゆくのです。
現在のソフィー・シェリエのクラス(2018年撮影)現在のソフィー・シェリエのクラス(2018年撮影)

フルーティスト アラン・マリオン あふれる光と愛の泉より

アラン・マリオン
(アルソ出版 1999年刊)
アラン・マリオン
(アルソ出版 1999年刊)

パリ音楽院の教授に任命され、教えることに専念するようになったことが、 ソリストとしての自分のキャリアのために時間を費やせることにつながった ― それはマリオンが望んでいた生き方だったという。(以下、「あふれる光と愛の泉」より再編)

(次のページへ続く)
・二つ目のクラスの教授に選ばれる
・「復讐なんかじゃない」
・知れば知るほど、与えることができる

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