【連載】THE FLUTE ONLINE vol.184掲載

【第16回】ふたたび、「あふれる光と愛の泉」

今回はジャン・ルイ・ボーマディエを紹介しよう。ボーマディエはランパル親子、そしてマリオンのもとで研鑽を積み、ピッコロの名手として名を馳せている。

 

齊藤佐智江
武蔵野音楽大学卒業後、ベルサイユ音楽院とパリ・エコール・ノルマル音楽院にて室内楽とフルートを学ぶ。マリオン・マスタークラスIN JAPANをきっかけにマスタークラス、インタビューでの通訳、翻訳を始める。「ブーケ・デ・トン」として室内楽の活動を続けている。黒田育子、野口龍、故齋藤賀雄、播博、クリスチャン・ラルデ、ジャック・カスタニエ、イダ・リベラの各氏に師事。現在、東京藝術大学グローバルサポートセンター特任准教授。

~アラン・マリオンをめぐるフレンチフルートの系譜~
《番外編》
すべては、ピッコロを演奏する喜びを分かち合うためにジャン・ルイ・ボーマディエ

(フランス・フルート協会誌La Traversière 132号より、許可を得て転載改編)
インタビュアー:Christine Lacombe氏、Mikki Steyn氏

ジャン・ルイはもともと父の生徒だった。彼は素晴らしいテクニックに恵まれ、魅力的な人柄と豊かな芸術的センスで、デビューした時から際立だっていた。“小さなフルート”のレパートリーを幸せそうに演奏するが、くるくると急転回するかと思えば、夢心地……まさにピッコロのパガニーニだ!(ジャン・ピエール・ランパル)

マルセイユに生まれ、ランパル親子、マリオンらに教えを受けたボーマディエ氏。これほどまでにソロ楽器としてのピッコロの可能性を広げ、その地位を高めた人は他にいるだろうか。ボーマディエが若い頃から人生を共にしてきたボンヌヴィルのピッコロは、フルートのように美しい音色、豊かな表現力と魅力に満ち、まさに“小さなフルート”と呼ばれる所以である。マルセイユに戻ってからも、精力的に演奏活動と教授活動をしながら、ピッコロの世界をより多くの人に知ってもらおうと曲を掘り起こし、また委嘱、初演し録音する活動を続けている。

パリでのキャリアを後に、マルセイユへ

あなたのオケでのキャリアはパリ音楽院の最後の頃に始まりましたね。その頃からすでにピッコロ奏者としての才能は知られていたのですか?

私が20歳の頃のはるか昔には、パリ音楽院にはピッコロのレッスンなどありませんでした! でも在学中に、コロンヌ管弦楽団と、文化省によって創設された《14の譜面台》というアンサンブル(のちのピカルディ管弦楽団)のピッコロの首席に受かったので、先生方や生徒たちには少しは知られていました。そこには1年半在籍し、それから、後にフランス国立管弦楽団に改名する前身のオケに受かりました。その時のフルートパートは、贅沢にもアラン・マリオン、フェルナン・デュフレンヌ、フィリップ・ゴーティエでした! そこの演奏家たちや素晴らしいレパートリーに立ち向かう偉大な指揮者たちの質の高さは、私にとってはたとえようのないくらい素晴らしい、さらなる学びの場でした。それから、マリオンとデュフレンヌが退団し、パトリック・ガロワとフィリップ・ピエルロが入団しました。4人での仕事はとても密度の濃いものでした。
このオケであっという間の12年を過ごしましたが、その後マルセイユに戻ることにしました。その頃、パリ郊外のムードン(Meudon)の音楽院の教授をしていたのですが、私が子どものころ、音楽的にたくさん影響を受けたマルセイユ音楽院の院長、ピエール・バルビゼから、音楽院で教えないかと声をかけられました。そこでマルセイユ・オペラ座管弦楽団の入団試験を受けてピッコロのポストを得て、それから長年にわたり、レッスン、講習会、コンサート、オケと活動してきました。その間私は独自に新曲を初演し、録音するという望みを忘れることはありませんでした。

(次のページへ続く)
・フルートの大ファンだった子供時代
・J.M.ダマーズとの共演からピッコロ協奏曲誕生へ
・ピッコロ協奏曲集、ワールドピッコロの録音

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