【連載】THE FLUTE ONLINE vol.183掲載

【第15回】ふたたび、「あふれる光と愛の泉」

今回は、まだ若かったマリオンを認め、“チャンスを作ってくれた一人”とマリオンのインタビューでも登場するクリスチャン・ラルデ(1930-2012)を紹介する。ソリストとしてだけでなく、パリ音楽院の室内楽科教授として、また同ハープ科教授であった夫人、マリー・クレール・ジャメとの珠玉の気品あふれるデュオはフランス音楽をはじめ室内楽の素晴らしさを世界中に知らしめ、無二の音楽家として幾度となく日本にも招聘され多くの生徒を育て、人々から愛された。

 

齊藤佐智江
武蔵野音楽大学卒業後、ベルサイユ音楽院とパリ・エコール・ノルマル音楽院にて室内楽とフルートを学ぶ。マリオン・マスタークラスIN JAPANをきっかけにマスタークラス、インタビューでの通訳、翻訳を始める。「ブーケ・デ・トン」として室内楽の活動を続けている。黒田育子、野口龍、故齋藤賀雄、播博、クリスチャン・ラルデ、ジャック・カスタニエ、イダ・リベラの各氏に師事。現在、東京藝術大学グローバルサポートセンター特任准教授。

~アラン・マリオンをめぐるフレンチフルートの系譜~
《番外編》クリスチャン・ラルデ 室内楽への情熱
La Traversière 誌No.105インタビュー(1992年)より許可を得て再編
インタビュアー:ドゥニ・ヴェルースト(ランパル協会会長)
写真提供:森岡広志(ムラマツ・フルート・レッスンセンター講師)

クリスチャン・ラルデ氏と奥様のマリー・クレール・ジャメさんクリスチャン・ラルデ氏と奥様のマリー・クレール・ジャメさん

数多くのオーケストラで首席奏者を務め、かつソロ・室内楽活動も行なったクリスチャン・ラルデ氏。1970年にパリ国立高等音楽院の教授になって以降、1995年に退官するまで多くの音楽家を育てた。前号に引き続き番外編、今回はラルデ氏の人生を辿る。

『シランクス』が始まり

クリスチャン・ラルデ(以下 L):最初、母がアマチュアのヴァイオリニストだったこともあり、私は5歳から11歳までヴァイオリンを弾いていました。当時は戦争の真っただ中で、フランスは占領下にあり、フランス国立管弦楽団と母のいた合唱団は秘密裡に非占領地区へと出発しました。1941年の3月に境界線を超えましたが、もちろん荷物など持っていけるはずがありませんでした。
ヴァイオリンを持たずにマルセイユに到着し、そこで2年を過ごし、1942年11月にドイツ軍がフランス全土を占領すると、最終的にオケと合唱団はパリに再度上京したのです。私は引っ越しが多く真面目に勉強するには程遠い環境でした。それに、勉強にそれほど向いているわけでもなかったので、母に勉強か音楽かと選択を迫られると、躊躇なく音楽を選びました。やっとまた手にしたヴァイオリンでしたが、この2年間で何もできなくなっていて、本当に困ってしまいました。でも、管楽器は身体が少し発達してからでも始められることを教えてもらったのは天に感謝するしかありません。当時は今のようにフルートを8、9歳やそれ以前に始めるようなことはなく、だいたい11~13歳で始めたものです。
こうして、最初のレッスンをガストン・クリュネルのもとで受けました。13歳と3か月でした。

ドゥニ・ヴェルースト(以下 V):なぜフルートだったのですか?

L:ものすごく鮮明に覚えているのですが、マルセイユにいたころ私は寮にいて、ある日映画館に連れて行ってもらったのです。映画が始まる前に何かを説くドキュメンタリーがありました。ヴィシー政権下でしたから、土に帰ろうとか、家族、名誉、仕事……農夫が仕事をしている、のどかな風景に音楽が流れていたのです。私の子ども時代はフランス国立管弦楽団に育てられたわけですが、そのおかげでそれがフルートだとわかりました。
ですから、母に音楽を選ぶなら管楽器を選びなさいと言われると、私にはなんの疑いもなく、フルートを選んだのです。子どもが何かに夢中になるように私の耳にはこの美しいソロが響いていたからです。こうしてクリュネルを紹介してもらいました。ずっとあとになってわかったのですが、私が文字通り恋をしてしまったこのソロの曲はドビュッシーの『シランクス』でした。これが始まりです。

(次のページへ続く)
・病床での希望の光
・アイルランドへ
・サロンでの出会い、カナダ

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フルート奏者カバーストーリー