【連載】THE FLUTE ONLINE vol.182掲載

【第14回】ふたたび、「あふれる光と愛の泉」

ジャン・ピエールとその父ジョゼフ、ランパル親子に学び、オーケストラ奏者を歴任、その後パリ音楽院教授を務め、日本のフルートシーンに大きな影響と変化をもたらしたフルーティスト、アラン・マリオン氏。1998年、59歳で急逝してから20年が経った。当時、氏の来日の度に通訳を務めた齊藤佐智江さんは、氏へのインタビューと思い出を綴った「あふれる光と愛の泉」(アルソ出版刊)を翌1999年に上梓した。パリ留学時代の氏との出会い、マリオン氏の通訳を務めることになったこと、傍らで聞いた氏のユーモア、珠玉の言葉、感動的ともいえるエピソードの数々……。それをいつか本にまとめたいと1998年5月に始めたインタビューは、期せずして、氏がパリ音楽院の教授に指名されたところで終わってしまった。
今ふたたび、「あふれる光と愛の泉」をもとに、マリオン氏と共に音楽を人生を享受した様々な音楽家、そして強い意志を持って音楽家の人生を生き抜いたマリオン氏をここに紹介したい。

 

齊藤佐智江
武蔵野音楽大学卒業後、ベルサイユ音楽院とパリ・エコール・ノルマル音楽院にて室内楽とフルートを学ぶ。マリオン・マスタークラスIN JAPANをきっかけにマスタークラス、インタビューでの通訳、翻訳を始める。「ブーケ・デ・トン」として室内楽の活動を続けている。黒田育子、野口龍、故齋藤賀雄、播博、クリスチャン・ラルデ、ジャック・カスタニエ、イダ・リベラの各氏に師事。現在、東京藝術大学グローバルサポートセンター特任准教授。

~アラン・マリオンをめぐるフレンチフルートの系譜~
《番外編》レイモン・ギオー 素晴らしき“二重生活”―その3―
(La Traversière135号 ベルナール・デュプレックス氏によるインタビュー記事より許可を得て引用、抜粋)

ある小春日和の午後のレイモン・ギオーある小春日和の午後のレイモン・ギオー
(©Bernard Duplaix撮影、フランスフルート協会La Traversière提供)

昨年90歳を迎えたレイモン・ギオー氏の、クラシック分野以外での活躍を知る3回目(最終回)では、映画の台頭によるレコーディングの現場の変遷、そしてジャック・ルシエに代表されるバロック音楽をもとにしたジャズの流行、ジャズとクラシックの融合など、ギオー氏が大いに活躍した時代を、氏の人生とともに辿る。

映画芸術の誕生

映画はフランスで生まれた。1908年にはサン・サーンスが映画「ギーズ公の暗殺」の音楽を作曲した。それから多くの大作曲家たちが映像と音のあらたな融合である映画のために作曲をするようになったが、その驚異的な多様性から、映像に合いさえすればジャズ、シャンソン、ワールドミュージック、現代音楽さえ使われた。1世紀近くの間、映画監督と作曲家たちによって映像と語りと音楽の新たな相互作用が刷新され続けてきた。
 “なんでも演奏できる”レイモン・ギオーは、クロード・ボーリング、モーリス・ジャール、フランシス・レイ、ミシェル・ルグラン、エンニオ・モリコーネらをはじめとするおびただしい数の映画音楽の録音に参加した。

ギオー:最初、映像に対して録音したのでオケの指揮者は音と映像を一致させるのに必死だった。自分たちが演奏している間、映像技師がフィルムを次々と送り、時々手で巻き戻し……時間ばかりかかった。当時とても評判のいいジャン・ブランという写譜屋がいた。彼はジョゼフ・コズマのアパートの鍵を預かって夜中にスコアを取りに行き、翌朝9時の録音に間に合わせたり……。
私はたくさんの人が参加する録音が多かった。よく覚えているのはアメリカ映画「ある愛の詩」だ。作曲者のフランシス・レイはアメリカでレコーディングをしたくないと言って、1970年にスタジオ・ダヴーで録音した。この作品は翌年オスカー賞を獲った。何年も後になってアメリカでこの映画音楽のレコードを見つけた。そこには私が録音したモーツァルトのソナタも入っていた。もちろん演奏者の名前はなかったよ。また、レコーディングには演出家が来ることもあった。同じ年のロマン・ポランスキーの「テス」のレコーディングの時は、私の都合で私だけ後で録音することになった。作曲者のフィリップ・サルドもポランスキーもスタジオに来ていた。その時はロンドンからわざわざベーム式の木製のフルートが取り寄せられていた。吹き心地はあまりよくなかったけど、吹くしかなかった……。
映像では若い男性が畑のなかでフルートを吹いていた。役者が動かしている指に合わせてできる限りの即興演奏を始めると、作曲家は「私の音楽を吹いてくれないか……」と言う。それに合わせることの難しさと言ったら! そのうえポランスキーは「若い学生が休暇で農場に来ているんだ」というので、少し演奏を緩めると、「そう、でも彼はまじめな学生で……」結局夜中いっぱいかかった。幸いなことにポランスキーはいい人だったし、ギャラもきちんともらった。誰にでも頼める仕事ではなかった。本当にこの仕事はなんでもできなくてはならなかった。

(次のページへ続く)
・ジャズはバロックへ
・信頼できるトラ選び
・パリ音楽院でマリオンのアシスタントとして

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