【連載】THE FLUTE ONLINE vol.181掲載

【第13回】ふたたび、「あふれる光と愛の泉」

ジャン・ピエールとその父ジョゼフ、ランパル親子に学び、オーケストラ奏者を歴任、その後パリ音楽院教授を務め、日本のフルートシーンに大きな影響と変化をもたらしたフルーティスト、アラン・マリオン氏。1998年、59歳で急逝してから20年が経った。当時、氏の来日の度に通訳を務めた齊藤佐智江さんは、氏へのインタビューと思い出を綴った「あふれる光と愛の泉」(アルソ出版刊)を翌1999年に上梓した。パリ留学時代の氏との出会い、マリオン氏の通訳を務めることになったこと、傍らで聞いた氏のユーモア、珠玉の言葉、感動的ともいえるエピソードの数々……。それをいつか本にまとめたいと1998年5月に始めたインタビューは、期せずして、氏がパリ音楽院の教授に指名されたところで終わってしまった。
今ふたたび、「あふれる光と愛の泉」をもとに、マリオン氏と共に音楽を人生を享受した様々な音楽家、そして強い意志を持って音楽家の人生を生き抜いたマリオン氏をここに紹介したい。

 

齊藤佐智江
武蔵野音楽大学卒業後、ベルサイユ音楽院とパリ・エコール・ノルマル音楽院にて室内楽とフルートを学ぶ。マリオン・マスタークラスIN JAPANをきっかけにマスタークラス、インタビューでの通訳、翻訳を始める。「ブーケ・デ・トン」として室内楽の活動を続けている。黒田育子、野口龍、故齋藤賀雄、播博、クリスチャン・ラルデ、ジャック・カスタニエ、イダ・リベラの各氏に師事。現在、東京藝術大学グローバルサポートセンター特任准教授。

~アラン・マリオンをめぐるフレンチフルートの系譜~
《番外編》“エレガントな鮫”―その2―
(La Traversière135号 ベルナール・デュプレックス氏によるインタビュー記事より転載)

パリの自宅にて、2000年頃パリの自宅にて、2000年頃

昨年90歳を迎えたレイモン・ギオー氏の、クラシック分野以外での活躍を知る2回目。フランスのフルート協会会報La Traversière誌に取り上げられた氏の知られざる人生。今回は、氏がマルチミュージシャンの先駆者と讃えるフルート奏者、Roger Bourdin(ロジェ・ブルダン)との交流などについて。

先駆者ロジェ・ブルダン

ロジェ・ブルダンは、1923年にMulhouseミュルーズに生まれる。音楽を愛する両親の影響で父の転勤先のヴェルサイユの音楽院で9歳の時にフルートを始め、1939年16歳でパリ音楽院に入学しマルセル・モイーズのもとで学ぶ。ブルダンは、毎日ピアノと和声を勉強し、1941年にはヴェルサイユ音楽院において和声でもプルミエプリを取得、その後パリ音楽院でも和声の勉強を続ける。1938年にはラジオでソリストとなり、1940年にはコンセール・ラムルー管弦楽団に入団し(ラムルーでは当時、パリ音楽院のプルミエプリのない人は無給だった。1960年以降首席)27年間在籍した。また1943年20歳からヴェルサイユ音楽院で教え始める。
室内楽奏者としてもハーピストのアニー・シャランらとトリオを結成するほか、1945年にはPol Muleポル・ミュール、J-P.ランパル、Eugène Massonウジェーヌ・マッソン(コロンヌ管弦楽団)とともにフルート四重奏団を立ち上げた。どんなジャンルの音楽にも――もしかしたら現代音楽を除いて――心から愛情を持ち、オーケストラ奏者、スタジオミュージシャン、指揮者、作曲家、音楽院院長、教師と多くの顔を持ちながら、特に教育者としては、「自分たちはソリストでいることを生徒から教わっている。教える人は同時に教わる人である」と語り、まさにその教育現場で脳出血のため突然、1976年に53年の生涯を閉じる。
「音楽は私たちを常に幸せにしてくれる贈り物だ。私はいつも幸せだ。もしもう一度人生を送らなければならないとしたら、今と同じ人生を望むだろう」

(次のページへ続く)
・敏腕スタジオミュージシャン“鮫”
・バークレー・レコードでクインシー・ジョーンズと
・デューク・エリントンin Paris

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フルート奏者カバーストーリー