木村奈保子の音のまにまに|第54号

キャスティング・カウチ!? 世界最高峰の女性指揮者を主人公にしたスキャンダルとは?

コロナのせいで、エンタメ界はどこも厳しい状況で、心配なこのごろ。
今年のアカデミー賞受賞作も、全体的に小ぶりな作品が多かったと思える。
しかし、そういうときにこそ、マイノリティー文化が躍り出るチャンスだ。
「エブエブ」(「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」)のようなアジア系年配女優がカンフーで暴れる作品が、オスカーを6冠も勝ち取るとは、誰が想像しただろうか?

そもそも香港のサモハンに見出されたミシェール・ヨーはカンフースターで主演女優賞。助演女優賞のジェイミー・リー・カーティスはホラークイーンからスタートしたコメディエンヌ。私の大好きなB級アクションホラーのスターたちが、彼らの並々ならぬエネルギーによって、摩訶不思議な世界観を作り上げた。
年配女優二人組を扱う割に、編集が若者向けのめまぐるしいスピードで、展開が新しい。
高齢女優達をメインにした、ダニエル監督によるいまどきの映画なのだから、新鮮だ。

「トップガン マーヴェリック」「アバター ウエイ・オブ・ウォーター」「フェイブルマンズ」などの大作、巨匠作などを押しどけて、B級タッチのアジアン系作品による一人勝ちは、もはや歴史に残る感慨深さ。

一方、スピルバーグ監督のノミネート作品「フェイブルマンズ」は、少年時代の監督が、シネマへの道に至るまで、母親を見つめている物語。奔放な母親の話は、共感しづらく、演出はオールドファッション。前作のミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」も音楽的センスが古く、なにかと残念だった。

私は、40年近く前に、カンヌ映画祭で「E.T」を招待作として観たことをきっかけに、テレビの仕事から映画界へと仕事をシフトする決意をしたほどのスピルバーグ・ファン。
一方で「E.T」を機に、もう映画界から去ろうと思った映画人たちがいたように、時代の変わり目を示した映画監督でもある。なにより、ユダヤの歴史を背負う彼は、「シンドラーのリスト」を作るために、生まれてきたと私は確信する。

アーティストに年齢は関係ない。それでも映画は常に、時代と社会を写し出す鏡であり、どこかに新しさが必要なのだ。

今回のアジア勢の受賞に触発されて、「RRR」のインド映画人たちは、きっと来年にむけて、よりダンサブルな作品をより新しく、虎視眈々と受賞準備をしているに違いない。
新風を吹き込んでくれるのは、マイノリティのエネルギーだろう。

さて、今回の受賞合戦でクラシックを扱う映画「TAR/ター」のケイト・ブランシェットは、私のみならず、多くの映画ファンからも最高のリスペクト女優と受け止められている。
今回は、アメリカアカデミー賞は逃したものの、すでに英国アカデミー、ゴールデングローブ賞、ヴェネチア映画祭の主演女優賞を受賞している。
さもありなん、製作総指揮も兼ねたブランシェットは、作品を一人の力で引っ張るタフなヒロイン映画となっている。

 

本作は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の名前を使った架空の物語である。
私も、サイモン・ラトルとベルリン・フィルの来日時には、リハーサルを見せてくれるというので、取材がてらサントリーホールに行ったことがある。もう、素晴らしすぎて、そのとき息をしていたのか忘れるほど、緊張と喜びを味わった思い出がある。

こんな超一流の演奏家たちに、どんな人生の暗部があるというのか?
知りたくもないし、知る必要もないと思うほど、その“才能”にリスペクトする人は少なくないだろう。
しかし、ハリウッド映画界と同様、人権問題が指摘される時代。

本作では世界最高峰のクラシック楽団の指揮者に選ばれし主人公が、どんな人生を見せるのか?
世界中から音楽性を評価され、ドイツとアメリカをチャーター機で移動するセレブ生活は音楽家にとっては理想の環境だろう。

非ユダヤ人の主人公がマイノリティである部分は、女性で、レズビアンである点だ。楽団のコンマスと同棲しているのも、微妙な関係だ。
男性社会のクラシック界で、女性指揮者がジェンダー論を放つコメントも小気味いい。

そこまでは、多様性社会のキャラ作りで、新しい。
前半は、天才ヒロインの紹介がメインで、インテリジェンスあふれるセリフがちりばめられる。

しかし、後半から、権力者でもあるこのヒロインが、自分の意に反する者の未来を阻むような行動をしたり、何より自分の性的趣味で新人を楽団に起用しようとする問題行動まで起こす。

かくして、指揮者が教鞭をとる生徒が、自殺してしまうところから、物語は展開する。
キャスティング・カウチ(Casting couch)、つまり肉体関係と引き換えにキャスティングに便宜を図ることが常態化していた主人公に、疑いがかかるのだ。

本作は、ハリウッド映画界よりアカデミックな“ワインスタイン、MeToo”映画のクラシック版といえるだろうか。

テーマが、芸術界のセクハラ、パワハラといった社会的な問題を扱うのは現代社会ならでは。
ただ、アカデミックすぎる背景のためか、その描写が微妙でわかりにくいのが難点。
下世話にならない配慮がされすぎているためだろうか。
アメリカのケーブルテレビのセクハラ問題を直球で描く「スキャンダル」(2019/米)とは表現が大きく異なるのは確か。

実際は、クラシック界でも、こうした性的趣味による公私混同の問題はあったと言い伝えられており、それは男社会でのゲイセクハラにあたる。
権力者はたいてい男性であり、狙われる対象は女性とは限らず、男性であることもある。
それを被害者目線で成功者の裏側をあばいていく人権運動が、いま始まっている。

 

そんな社会運動がすすむなかで、監督自身が脚本を書いた本作の主人公は、女性である。
なぜか? テーマを扱うなら、過去の指揮者はほとんど男性であり、それを女性にしてレズビアンにし、性的加害者にしたのは……?

私は常々、企画段階で、女性映画を女性的な存在で作るのはもう古く、男性を主人公に作ろうとしている作品を、そのままのキャラ設定で女性に転じさせるだけでも新鮮になるのに、と考えている。

が、本作は、主人公が加害者側である。それでも存在に意味が出せるのは、ケイト・ブランシェットだけかもしれない。
「あるスキャンダルの覚え書き」「ブルージャスミン」の延長上にある倒錯感とセレブ落ちのブルーな生きざまは、ケイトならではの退廃の美学といえる。

そういうわけで、本作は現代にある問題意識を突くための映画作りではなく、芸術家であるヒロインの成功と転落、再生の物語として見つめている。

それにしても、映画的な要素を優先させるなら、ベルリン・フィルの名前でなくてもよかった。架空の楽団名でいい。音楽ファンからすれば、映画の中で、現役のベルリン・フィルの演奏が聴けるのではないかと期待してしまうからだ。

そんな意味で、一番素晴らしかったシーンは、ブランシェットが性的に興味を示す新入り楽団員の若い女性、ソフィー・カウアーがチェロを演奏するところ。
英国系ドイツ人の彼女は、そもそも音楽家。本作では、女優の兼務で登場した。
一音を聴いただけで、ぶるっとくるから、プロと分かる。
やはり、クラシック音楽を背景にするなら、この瞬間がもっと欲しい。
クラシック演奏者で、俳優としての資質があると映画界は助かるのだ。
指揮者レオポルド・ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団が出演した映画「オーケストラの少女」(37/米)は、音楽家を見事に活用した傑作だった。

本作では、様々な音楽家の名前や音楽論が、映画の中でセリフとして駆け巡るが、言葉よりも、音のほうが、圧倒的に魂に響くのではないか、と私は思う。

ジェンダー論か、
セクハラか
クラシック界のスキャンダルか、
天才の心の闇か、
あるいは音楽論か、

音楽に携わる演奏者たちの視点から、ぜひ、意見を聞いてみたい作品である。

MOVIE Information

「TAR/ター」(5月12日(金)TOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開)
[監督・脚本・製作]トッド・フィールド『イン・ザ・ベッドルーム』『リトル・チルドレン』
[出演]ケイト・ブランシェット『ブルージャスミン』、ノエミ・メルラン『燃ゆる女の肖像』、ニーナ・ホス『東ベルリンから来た女』、ジュリアン・グローヴァ―『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』、マーク・ストロング『キングスマン』
[音楽]ヒドゥル・グドナドッティル 『ジョーカー』(アカデミー賞作曲賞受賞)
[撮影]フロリアン・ホーフマイスター
[編集]モニカ・ヴィッリ
[原題]TĀR/アメリカ/2022年/カラー/シネスコ/5.1chデジタル/159分/映倫G/字幕翻訳:石田泰子
[配給]ギャガ https://gaga.ne.jp/TAR
© 2022 FOCUS FEATURES LLC.

 

木村奈保子

木村奈保子
作家、映画評論家、映像制作者、映画音楽コンサートプロデューサー
NAHOKバッグデザイナー、ヒーローインターナショナル株式会社代表取締役
www.kimuranahoko.com

 

N A H O K  Information

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