フルート記事
THE FLUTE 139号 Close-Up1

マルコ・ズパン×佐々静香 オンライン限定エピソード

ベートーヴェンの交響曲第1番から第9番までを順番に演奏するコンサート、その名もベートーヴェンチクルス。来日中であったベルリン交響楽団がわずか2日でベートーヴェンチクルスを披露しました。首席フルートを交代で務めたマルコ・ズパンさんと佐々静香さんへのインタビューの中から、本誌に掲載できなかった宇都宮ツアーでのエピソードや、さまざまなお話をお届けします。

 

宇都宮での思い出

――
今回のツアーの感想を聞かせてください。
マルコ
ベルリン交響楽団との日本ツアーは今回で3回目になります。初めて来たときは右も左も分からなかったのが、今はどこのお店のどんな料理がおいしいというところまでわかるようになりました。1週間の宇都宮滞在で、欠かせなかったのが毎日の餃子と夜のジャズ部活。
佐々
通いましたものね(笑)。宇都宮はジャズの町ということで、連日リハーサルとコンサートの後、あるジャズバーに通っていました。お店のフルートを借りてジャムセッションをし、マルコは日々そこで練習して、ついにある日の営業後に同僚と小さなコンサートをしてしまったんです(笑)。
マルコ
おいしい餃子とおいしいお酒で仕事の疲れも忘れて、つい音楽の世界に呼び戻されてしまってね……。
佐々
ある日のこと。この町一番のジャズバーに連れて行ってほしいと言われたんです。夕食後でわからなかったので、近くの交番で尋ねたら、さすが宇都宮、ある場所をすぐに教えてくださいました。それで行ってみると、寂れた感じのお店にマスターが一人、カウンターにぽつんと座っているだけだったんです。
マルコ
シズカ、そのお店は50年続く伝統あるお店だってことも忘れずに話して!
佐々
……それで、今日はやっていないとのことで、翌々日来るように案内してもらいました。しかし、待ちきれないマルコは翌日抜け駆けして、お店に行ってしまったんです。ジャズバーにいると連絡を受けた同僚が次から次にそのお店に押し掛けてしまい、最終的には30人ほどの同僚でお店がパンク寸前になってしまいました。お店のビールを全部飲み干してしまって、マスターが出してきてくださったウィスキーで仕切り直しました。もう一人のフルートの同僚やヴィオラの同僚なんかは自分の楽器を持ち込んでセッションしたり、チェリストがベースギター、ステージマネージャーがドラムを叩いたりと、にわかバンドができてしまって、もちろんマルコもそこで一緒にセッションしていました。
マルコ
なぜ僕がこの話を詳しく話してほしいと言ったかというと、ここのマスターが戦争でなくした祖父のように感じてしまったからなんです。
佐々
ええ、それはあなたたちを見ていて、ただ者ではない雰囲気を感じていました。音楽があなたをあのお店に連れてきてくれたのだと思うわ。
マルコ
祖父に会いにね。ベートーヴェンが会わせてくれたのだと思っています。これが、宇都宮でのベートーヴェンのハイライトです。音楽をジャンルに分けてそれしかやらないというのは、もう時代がそうさせてくれないところまで来ていると思っています。音楽のお陰で、ベートーヴェンをたどりながらの、どこか懐かしい感じのする新しい出会いができました。
佐々
素敵なエピソードをありがとう。

 

音楽に対する愛をいつまでも持ち続けるように

佐々
初めてフルートを吹いたときはどうだったの? 音がなかなか出なかったとか、そういうことは……?
マルコ
なかったよ。とても自然に音が出せたんだ。当時7歳だった僕はまだ体も小さかったので、フルートを構えるのに精一杯ということもあり、頭部管だけに集中してしばらく練習できたことは良かったと思っています。しかしそれもすぐに終わって、小さな僕でもフルートの音を出すのに苦労がなかったのはとてもラッキーだったと思う。
佐々
あなたは手が大きいから元々楽器を構えるのに苦労がなかったのかと思っていたわ。
マルコ
いや、僕はとても小さくて、特に小学生の頃は前から数えたほうがはやかったんだ。だから、フルートを構えるのは大変だった。14歳を過ぎたあたりから急に大きくなって、それと共に手も大きくなり、フルートを吹くのがとても楽になりました。
佐々
フルートを勉強していく上でのスタートがかなり良かったあなたでも、時間をかけて一生懸命練習してきたのではないですか?
マルコ
初めて楽器を手にしたときから、自分の意志でプロになろうと思って練習を始めた人はほとんどいないと思います。音を出すことに喜びを持って、音が出ることが嬉しい、それが子どもと楽器のリレーションシップのスタートではないのでしょうか。もちろん技術的な練習は必要ですが、スパルタ的にプレッシャーをかけてはいけないし、音楽を楽しむ心を忘れては本末転倒。それは計算のやり方や、日本や中国の子どもたちが必死になって漢字を覚えるのとは少し違うのです。
音楽に対する愛をいつまでも持ち続けるように、教える側の教え方も重要だと当時を振り返って思います。私は8歳の頃から既にマンツーマンのレッスンを受けていました。そういえば7歳でリコーダーを始めたときから個人レッスンでした。
佐々
それは贅沢!
――
スロべニアの音楽大学へも通いましたよね?
マルコ
首都のリュブリアーナにある音大に進学しました。ここの学校で教えていたのは私の従兄なんです。
佐々
師匠が従兄だったのね!
マルコ
そう、楽しい時間でした! パリのピエール=イヴアルトー門下になることを目指していた私は、リュブリアーナの学校を通常より早く卒業することができ、3年でディプロムを取得しました。学校自体が生徒一人一人のサポート力に長けていて、アルトー教授が隣の国のクロアチアで年4回、10日間のマスタークラスを行なう際は、毎回顔を出すように勧めてくれました。またこの学校に在学中、私は様々な演奏の機会を得ることができ、中でも18歳の頃から始めたスロベニアのオペラ座での仕事はプレイヤーとしての始まりを築いたと言えます。それを通してたくさんの考えやアイデアを得て、よりオーケストラプレイヤーへの憧れを強くしました。
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