タファネル=ゴーベールとは何?
“タファネル=ゴーベール”とは「17の日課大練習」という教則本の通称としてよく用いられていますが、実はポール・タファネルとフィリップ・ゴーベールというお二人が書いたメソッドのことです。
タファネルもゴーベールも偉大なフルーティストであり、指揮者、音楽家、教育家でした。タファネルがパリ国立高等音楽院で教鞭を執っていたとき、ゴーベールはその生徒でした。
タファネルが書こうとしていた「フルートの教則本」は、初心者から上級者まで使える内容でした。この本は後に「タファネルとゴーベールの完全版」として出版されましたが、この本のパート4にこれから取り上げる「17の日課大練習」が書かれています。この「17の日課大練習」は、“フルーティストのバイブル”と呼ばれるほど、フルート奏者を目指す人にとっては必須の教則本になっています。
Philippe Gaubert フィリップ・ゴーベール

フィリップ・ゴーベールは1879年7月5日、南西フランスのワインで有名な町カオールに生まれる。父は靴、革製品の修理屋。趣味ではあるが、かなり本格的にクラリネットを吹いていたようだ。その父からソルフェージュの手ほどきをうける。その後7歳のとき、家族でパリに移住。そのとき住んだ家のすぐ近くにタファネル家もあった。近くに多くのミュージシャンが住んでいる界隈だったので、最初にヴァイオリンを始めてみるが、すぐにフルートに興味を持ち、ポール・タファネルの父、ジュール・タファネルにつきレッスンを受け始める。タファネルの父はゴーベールの才能を素早く見抜き、息子であるポールにフルートを習うことを強く勧める。このとき1890年。ゴーベル11歳。タファネル46歳。
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1893年タファネルがパリ音楽院の教授になり、同時にゴーベールも入学。翌1894年7月にはプルミエ・プリを得て卒業。師タファネルがゴーベールを心からかわいがり、彼の寛大な性格がよく出ているエピソードがある。パリ・オペラ座とパリ音楽院管弦楽団のフルート奏者として、ゴーベールを推薦する手紙をこのように送っている。「この16歳の坊やは、あなたたちを吃驚させるよ。僕より10倍上手にフルートを吹く」
Claude Paul Taffanel ポール・タファネル

タファネルは1844年9月16日ボルドー生まれ。彼はパリに出てくる前、すでにボルドーでかなり高度な音楽の教育を受け、フルートの技術も体得していた。パリ音楽院ではフルートをルイ・ドリュスに師事。ドリュスはオペラ座のフルーティスト。ドリュスのもと、もっとも優秀な生徒だったタファネルは、1860年16歳でプルミエ・プリ(1等賞)を得ている。そして1864年、20歳でパリ・オペラ座管弦楽団に入団する。先生のドリュスは、1866年までオペラ座のフルーティストを務めていたので、師弟でありながら同僚でもあった。 1867年にはパリ音楽院管弦楽団に入団。1880年、36歳でパリ・オペラ座管弦楽団の指揮者。1892年、パリ音楽管弦楽団の指揮者に。そして1893年、48歳でパリ音楽院のフルート科の教授に任命される。その後フィリップ・ゴーベールをはじめ、ルイ・フルーリー、マルセル・モイーズ、ジョルジュ・バーレールなど数々の優秀なフルーティストを育てている。
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フルーティストとしてのみならず、人間的にも高い教養と知識を有していたタファネルは、死の直前まで二つの完結させなければならない夢(仕事)を抱えていた。一つは 「コンセルヴァトワール音楽百科事典」の執筆。もう一つは「フルートの教則本」の完成。フルートのテクニックの追求をし尽くした彼は、美学的なアプローチでも極限まで努力することを怠らなかった。
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「フルートの教則本」は全227ページにわたる大教則本である。それぞれ事細かに説明が書いてあり、いかにどうやって教育すべきか考え尽くされたものなのだ。初心者から上級者まで、すべての技術が網羅されていて、まさにフルートのための百科事典と言ってもおかしくない。
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しかしタファネルは、志半ば、1908年11月21日、64歳でこの世を去ってしまう。彼の遺した膨大なスケッチから師弟関係を越え、まるで親子のように親密だったゴーベールが師の意志を継ぐ。ルイ・フルーリーが「コンセルヴァトワール音楽百科辞典」を、ゴーベールが教則本「タファネル=ゴーベール」を完成させ、ついに1923年、パリで出版されることになったのである。
(THE FLUTE第67号、68号「パリ音楽院と名教授たち」藤田真頼著より)












